夜更かしっていいね。
明日は午後からの仕事だよ。
うれしいよ。
でもストレスがたまるよ。
毎日いじめられているよ。
そしてそんなあなたにおすすめの映画を紹介するよ。
嘘だよ。
全然おすすめじゃないよ。
大九明子っていう監督の「恋するマドリ」っていう映画だよ。
ガッキー主演だよ。
<作品解説・詳細>
恋するマドリ - goo 映画
美術大学に通うユイは新しいアパートに越してきた。だが元の部屋に忘れ物をしてしまう。戻ってみると元の部屋にはアツコという新住人が住みついたばかりだった。アツコは美術デザインにも精通していて、2人はすぐに意気投合する。引っ越しが終わり新生活を始めたユイは、同じアパートに住んでいるタカシに挨拶をする。驚いたことに、タカシとはバイト先でも毎日のように顔をあわせることに。運命を感じたユイはタカシに心惹かれていくが、タカシに何も言わずに去った恋人がいることが判明する…。
都会で暮らす三人の男女が、「引っ越し」をきっかけに出会い、心を通わせていく青春ラブストーリー。ささやかな“偶然”を盛り込みながら、ギスギスしがちな都会の生活に清涼剤を与えてくれるような作品だ。映画初主演の新垣結衣がCMやTVドラマで見せた持ち前の明るいキャラクターで、見る者すべてが思わず応援したくなるヒロインを好演している。美大生という設定だけに、ファッションやインテリアなど、小物にまで凝る心配りは女性監督(本作がデビュー作となった大九明子監督)ならではか。劇中に登場する家屋(=東品川)、アパート(=中目黒)は実際に存在するそうで、鑑賞後に探してみるのも一興かも。
<レビュー>女性向けの映画である。
「ロハス」
「スローライフ」
「無印良品」
「美大生」
「インテリア」
「カフェ」
「ハンマースホイ」
「小物」
「ちょいとしたお洒落」
上記のキーワードに関心のある女性には一応おすすめである。
なんとなくアレな感じなのです。
要はその、ガーリーな映画です。
ちなみに、下記のようなキーワードにひとつでも関心のある人にはおすすめできません。
「仁義なき戦い」
「トラック野郎」
「にっかつ」
「エレファントカシマシ」
「全日本プロレス(旧)」
「越中詩郎」
「木戸修」
「ズンドコ節といえば小林旭だ」
「海といえば港だ」
「アルコールといえばワンカップ大関だ」
「人材派遣といえば日雇い労働だ」
「芸術といえば爆発だ」
「俺は村上春樹が嫌いだ」
「そもそも俺は本を読まない」
「倖田 來未」
「小悪魔ageha」
「大好きです。飯島愛さん ゆっくりお休みになってください。」
「俺は東京生まれヒップホップ育ち」
「悪そうな奴はだいたい友達」
「マジ親に迷惑かけた本当に」
そう、さっきも言ったようにこれはガーリーな映画です。
「ガーリー」って言うと、ぼくのような腐った貧乏青年には虫酢がはしる言葉です。
でも女性に罪はない。
ぼくが腐っている。
腐っているぼくは、やたら体温の低そうな演技をするガッキーを、
なんとか無茶苦茶にしてしまいたいと思いながら観ていました。
音楽担当はスネオヘアーだそうです。
なるほどね。
それっぽい気もしないでもないかもね。
ちゃんと聴いたことないけどね。
恋するマドリの「マドリ」というのは、別に主人公がマドリちゃんという名前なのではなくて、
おそらく部屋の間取りのことなんです。
おそらくね。
物凄い腹が立つね。
センスが悪いにもほどがあるね。
主人公がマドリちゃんなら「恋するマドリ」は馬鹿っぽくて許せるけれども、
ひとひねりではなく半ひねりしているぐらいの頭の悪さが完全に許せないね。
なんというか、片山恭一的な、市川拓司的な、日本ラブストーリー大賞的な、
この、なんというか、淡く繊細なタッチの、あの、あれですね、中途半端な頭の悪さですね。
ああいうのに一番腹を立てるべきだと、ぼくは思っているのですね。
でもクソ映画じゃないんだよね。
悪口ばっかり言っているけれども、別につまらなくはないのですね。
正直、劇中頻繁にかかるあのメロディーはちょっと好きなんだよね。
なんかこう、土曜日の、昼下がりの、ちょっと都会的な、あの感じね。
最低だね、ぼくは。
悪口を無理矢理言いたいだけなんだろうね。
どことなく岩井俊二の「四月物語」に似ている。
でも、決定的に違うのは、「四月物語」のほうがあきらかに気持ち悪いってことだ。
つまりあっちはぼくみたいな少女漫画が好きな男性向けで、こっちは正しい女性向けなのですね。
ガッキーを生かすにはどうしたらよいか。
最近よくそれを考えている。
ポッキーでやたら頑張って踊っていたけれど、ぼくにはかなり無理しているようにみえる。
基本的に死んだような演技をする人だと思う。
声が根本的に小さいし。
かといって、清涼感のある爽やかな役柄にも微妙に向いていない。
そうすると、「恋するマドリ」のような、ちょっとおとなしい美大生という役はわりかしハマっていたように思う。
最終的に結論付けると、これはガッキーのイメージビデオです。
四月物語の松たか子ほどの画面の傲慢な主張はないです。
そこがまた、いかにも新垣結衣の特徴というか特長を生かしていて良いのではないのでしょうか。
では、またさようなら。
★★★☆☆
皆様お疲れ様です。駿河シカヲです、フォー!
俺を殺せ!
デレク・ジャーマン「BLUE」を観たよ。
<作品解説>
BLUE(1993) - goo 映画
94年2月にエイズで死去した映画作家デレク・ジャーマンの遺作。画家イヴ・クラインに触発されたブルーのみの映像が続く中、青についての随想と詩、そしてジャーマンが入院中に書いたエイズとの闘病についての随想が、ナレーションで語られる。日本公開に当たり、青一色の映像という監督の意図をより尊重した字幕スーパーのないプリントも上映された。製作はジェームズ・マッケイと「ヴィトゲンシュタイン」の浅井隆。音楽は、ジャーマンとは「エドワードⅡ」など4作でもコンビを組んだサイモン・フィッシャー・ターナーで、ブライアン・イーノ、モーマス、ヴィニ・ライリー、ミランダ・セックス・ガーデン、コイルなど全20組のアーティストの曲が挿入されている。ナレーションはジャーマンと、「ヴィトゲンシュタイン」のジョン・クェンティン、「カラヴァッジオ」のナイジェル・テリー、「エドワードⅡ」のティルダ・スウィントン。
<レビュー>
いわゆる実験映画である。
まるで文字のない小説だ。
または、審判しかいないオリンピックだ。
または、ボーカルしかいないバンドだ。
または、みずのないみずうみだ。
または、マリリンマンソンのいないマリリンマンソンだ。
または、青色しかない世界だ。
または、 。
画面は青一色。他には何も映らない。
そしておっさんがなにかブツブツつぶやいている。
もしも字幕がなければ、本当にぼくは混乱していただろう。
というか五分で観るのをやめたであろう。
goo映画の解説には、「日本公開に当たり、青一色の映像という監督の意図をより尊重した字幕スーパーのないプリントも上映された」とあるけれど、本当だとすればこれは凄いことである。
生きていることに意味はない。
映画にはまったく意味がない。
映画はただの茶番劇。
映画はくだらない。
映画は芸術ではない。
映画はすでに死んでいる。
デレク・ジャーマンはバカだ。
観た人はもっと馬鹿だ。
映画を観る人は基本的に馬鹿だ。
騙されている。
馬鹿であることを認識していれば、馬鹿じゃない。
というわけでもない。
★★★☆☆
駿河シカヲ
さっきダーティハリー4を更新したのですが、勢いでダーティハリー5もいっちゃいましょう。
完結編です!それにしても眠い。
<作品解説・詳細>
ダーティハリー5(1988) - goo 映画
自らも標的にされた連続殺人事件に立ち向かうハリー・キャラハン刑事の活躍を描く。「ダーティハリー」シリーズ4年ぶりの新作。製作はデイヴィッド・ヴァルデス、監督は「ダーティファイター 燃えよ鉄拳」のバディ・ヴァン・ホーン。スティーヴ・シャロン、ダーク・ピアソン、サンデイ・ショウの共同による原作をもとに、スティーヴ・シャロンが脚色。撮影は「ハモンド家の秘密」のジャック・N・グリーン、音楽は「ブラックライダー(1986)」のラロ・シフリンが担当。出演は「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」のクリント・イーストウッド、「アンタッチャブル」のパトリシア・クラークソン、「容疑者(1987)」のリーアム・ニーソンほか。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
サンフランシスコ市警察の“ダーティハリー"ことハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)刑事は、シスコ随一の賭博の元締ルー・ジァネロ(アンソニー・シャルノタ)を、持ち前の強引な方法によって逮捕したところであった。その模様はテレビを通じて報道され、ハリーは一躍市民の間で有名人となった。そのテレビをじっと見つめる人物がいた。そして、「死亡予想」と記された人物リストに、ハリーの名を書き込むのであった。ハリーはその夜、ジァネロの部下に襲撃されるが愛用のマグナムであっさり片付ける。翌日、その西部劇まがいの銃撃戦を上司のドネリー部長(マイケル・カリー)やアッカーマン課長(ダーウィン・グッドウィン)は非難するが、彼の新しい相棒として中国人のクワン(エヴァン・キム)をつけることにした。早速殺人事件が起こった。殺されたのは低予算の恐怖映画に出演中の人気ロック・アーティストで、致死量の麻薬を打たれていた。現場検証にクワンと駆けつけたハリーは、そこで以前から彼の捜査方法に興味を持っていたという女性レポーターのサマンサ(パトリシア・クラークソン)に出会う。だが捜査には収穫はなかった。ハリーとクワンは聞きこみにまわったチャイナ・タウンのレストランで4人のチンピラによる強盗事件に遭遇するが、見事に倒す。だがチンピラの流れ弾に1人の男が当たり死んでしまった。その男は死んだロック・アーティストが出演していた映画の経理を担当していた男だった。しかも、男は手に「死亡予想」と書かれたリストを持っており、ロック・アーティストの名ばかりかハリーの名も書かれていた。ハリーは、その映画の監督のピーター・スワン(リーアム・ニーソン)をマークするようになる。その間にも女流映画批評家のフィッシャーやテレビ司会者ノーランドら、いずれもリストに書かれた人物が殺されていった。遂に犯人の魔の手はハリーに及び、クワンと乗った車が爆薬を積んだリモコン・カーに追われ、クワンが重傷を追う。やがて犯人は、監督のスワンではなく、彼の狂信的なファンで分裂症と診断されたハーラン・ロック(デイヴィッド・ハント)であることが分かるが、ハリーたちが彼のアパートに駆けつけた時には、ロックは既に次の標的、サマンサをおびき寄せていた。ハリーはサマンサが連れ去られたらしい映画のロケ現場に向かい、遂に狂信犯ロックと対面する。サマンサを助けるためにマグナム44を手放したハリーだが、息づまる死闘のすえ、最後は大きなモリを使ってハリーは犯人を倒すのだった。
<レビュー>
はい。
さっきと同じテンションでいきますよ。
えーと監督はバディ・ヴァン・ホーンというひとで、まあイーストウッドのスタント関係で云々ですがもう疲れているのでそんなことはいい。
良かったのは、ものすごくB級でしょうもない作品だったってことだ。
あのラジコンの追いかけっこシーンはいったいなんだ。
子供か!
そのくせ結構盛り上げるし。
相棒が中国人のカンフー使いってのもな。
なんともB級感が漂うよ。
まあ、それにしてもあの1や2の名作感漂うA級な気品はどこへやら。
ダーティハリーシリーズはこれで完全に死んだのだなと思った。
立派に死んだと思う。
クソっぷりがいいよ。
最期の犯人の死に方は相変わらずグッドだよ。
アホみたいでグッドだよ。
眠くてだめだ。無理。
「た行」の映画が「あ行」を抜いた。
ダーティハリーシリーズでかせいだからだ。
★★★☆☆
今回はダーティハリー4だよ。
ついに主演のイーストウッドがメガホンをとったよ。
<作品詳細・あらすじ>
ダーティハリー4(1984) - goo 映画
悪に対して法律すれすれの荒っぽい手段で敢然と挑む、サンフランシスコ警察の孤独な一匹狼ダーティハリーことハリー・キャラハン刑事の活躍を描くシリーズ第4弾。製作・監督・主演は「センチメンタル・アドベンチャー」のクリント・イーストウッドで、これが彼の10作目の監督作品である。アール・E・スミスとチャールズ・B・ピアースの原案を基にジョセフ・C・スティンソンが脚本を執筆。撮影はブルース・サーティーズ、音楽はラロ・シフリン。主題歌をロバータ・フラックが歌っている。出演はイーストウッドの他に、ソンドラ・ロック、パット・ヒングル、ブラッドフォード・ディルマン、ポール・ドレークなど。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
サンフランシスコのゴールデン・ゲートを望む丘の上で、カーセックスの最中、女(ソンドラ・ロック)が突然、男の急所を射ち抜いた。現場検証に来たハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)は、手掛かりをつかめぬまま、以前に挙げた殺人犯の判決が下る州裁判所へ向かう。裁判で、犯人は無罪釈放となった上、逆にハリーの捜査の行き過ぎに警告を発するという結果になった。釈然としない気持ちで行きつけのコーヒー・ショップに立ち寄ったハリーは、強盗団に遭遇、激しい銃撃戦の末、事件を片づけた。その夜、ハリーは同僚たちが張り込んでいたマフィアのボスの孫娘の結婚式場に単身のり込み、ニセの証拠をつきつけて脅すと、ボスは心臓麻痺で倒れた。重ね重ねのハリーの無謀な捜査に批難の声が上がったため、北カリフォルニア沿岸の町サン・パウロヘ彼は出張を命じられる。シスコの連続殺人事件の犠牲者の1人がサン・パウロ出身だったからというのが表向きの理由だった。到着早々、銀行強盗の事件を片づけたハリーは、この街でもシスコの連続殺人事件と同じ手口で殺人が行なわれていることを知る。そんな時、彼は画家であるジェニファーと知り合い心引かれていく。ハリーが連続殺人事件を追ううちに意外な事実が浮かんできた。一連の事件は数年前のレイプ事件に端を発しており、その被害者がジェニファーと妹で、襲った犯人たちが次々に殺されているというのだ。レイプ事件の主謀者であるミック(ポール・ドレーク)はジェニファーと事件を追うハリーを片づけようと、仲間のクルーガー等と共にハリーを襲い、海に突き落とす。一命をとりとめたハリーが常宿としていたモーテルに戻ると、彼を尋ねてきた同僚のホレース刑事が殺され、彼が以前にくれた愛犬も傷つけられていた。怒りに燃えたハリーは新型の44オートマグナムを持って、ミックらがジェニファーを殺そうとしている遊園地に向かった。ハリーの銃弾に、またたく間に2人の仲間を失ったミックは、ジェニファーを人質にして逃げようとする。ジェットコースターの軌道の上を逃げようとするミックが、ジェニファーの手を離した瞬間、ハリーのマグナムが炸裂し、ミックは息絶えた。涙ながらに罪の許しを乞い哀訴するジェニファーにハリーは事件の犯人を彼女にすることなく解決することを優しく約束するのだった。
<レビュー>
眠い。
こんな時間に仕事を終えて帰ってきたのに感想なんて書けるか!
何時だと思ってるんだ!
まったく、24-twenty fourか!
さっさと寝ろよ!
とりあえず、この疲れ切った脳みそで思い出せるのは、
最期の犯人の死に方が馬鹿みたいに残酷で良かったってことと、
西部劇っぽい演出に笑ったことと、
キャラハン刑事が老いたってことと、
冒頭の80’sな感じの音楽に時代の移り変わりを感じたってことでしょうか。
まあ総じて面白かった。
というかダーティハリーシリーズは面白いですよ。
4になると完全にエンタメ路線です。
次回の5で完結です。
ぼくはクリント・イーストウッドさんが大好きですよ。
もうなんつーか役者としても俳優としても大好きですよ。
いや、いま「役者としても監督としても」って打とうとしたら、「役者としても俳優としても」って打ってしまいましたよ。
役者も俳優も一緒なんですのに。
監督としても素晴らしいということも言いたかったんですのに。
もう、あれなんですよ。
オレはとても疲れているんだと。
もう眠らせてくれと。
そう言いたいわけですよ。
とにかく今日はもうやめにしよう。
Go ahead. make my day.
さらばだ!
★★★★☆
雨が憎い。
今回は溝口健二の「近松物語」です。
<作品解説・あらすじ>
近松物語(1954) - goo 映画
近松門左衛門作の『大経師昔暦』を川口松太郎が劇化(オール読物所載「おさん茂兵衛」)し、それをもととして「忠臣蔵(1954)」の依田義賢が脚本を執筆、「噂の女」の溝口健二が監督に当る。撮影も同じく宮川一夫で、音楽は「千姫(1954)」の早坂文雄の担当。出演者は「銭形平次捕物控 幽霊大名」の長谷川一夫、「母の初恋」の香川京子、「君待船」の南田洋子、「新しき天」の小沢栄の外、進藤英太郎、田中春男など。
※ストーリーの結末が記載されているのでご注意ください。
京烏丸四条の大経師内匠は、宮中の経巻表装を職とし、町人ながら名字帯刀も許され、御所の役人と同じ格式を持っていた。傍ら毎年の暦の刊行権を持ちその収入も大きかった。当代の以春はその地位格式財力を鼻にかけて傲岸不遜の振舞が多かった。その二度目の若い妻おさんは、外見幸福そうだったが何とか物足らぬ気持で日を送っていた。おさんの兄道喜は借金の利子の支払いに困って、遂にその始末をおさんに泣きついた。金銭に関してはきびしい以春には冷く断わられ、止むなくおさんは手代茂兵衛に相談した。彼の目当ては内証で主人の印判を用い、取引先から暫く借りておこうというのであった。だがそれが主手代の助右衛門に見つかった。彼はいさぎよく以春にわびたが、おさんのことは口に出さず、飽く迄以春に追及された。ところがかねがね茂兵衛に思いを寄せていた女中のお玉が心中立に罪を買って出た。だが以前からお玉を口説いていた以春の怒りは倍加して、茂兵衛を空屋に檻禁した。お玉はおさんに以春が夜になると屋根伝いに寝所へ通ってくることを打明けた。憤慨したおさんは、一策を案じて、その夜お玉と寝所をとりかえてねた。ところが意外にもその夜その部屋にやって来たのは茂兵衛であった。彼はお玉へ一言礼を云いにきたのだが、思いも寄らずそこにおさんを見出し、而も運悪く助右衛門に見つけられて不義よ密通よと騒がれた。遂に二人はそこを逃げ出した。琵琶湖畔で茂兵衛はおさんに激しい思慕を打明けここに二人は強く結ばれ、以後役人の手を逃れつつも愛情を深めて行った。以春は大経師の家を傷つけることを恐れて懸命におさんを求めた。だがおさんにはもう決して彼の家へ戻る気持はなかった。大経師の家は、こうして不義者を出したかどで取りつぶしになった。だが一方、罪に問われて刑場へと連れられるおさんと茂兵衛、しかしその表情の何と幸福そうなこと--。
<レビュー>
「山椒大夫」を観て以来、香川京子に恋心に近いものを抱いている。
小津の「東京物語」で初めて彼女をみたときはそんなに印象に残らなかったのだが。
今回の「近松物語」は香川京子の独壇場である。
それがまずうれしい。
溝口健二は、なんと女性の撮り方が素晴らしいのだろう。
湖上の心中未遂(?)シーンにおける彼女は特に神々しい。
対して、相手役の長谷川一夫のしぐさが妙に女々しいのはやや気になる点である。
だが、何から何まで美しい映画なので、相手役の男も妖艶であるほうが良いのかもしれない。
また、溝口健二の流れるようなカメラワークは芸術の極みである。
完璧な構図。完璧な背景と人物の配置。それにに加えてモノクロの美しさ。
先ほどあげた湖上のシーンなどは美しすぎて人物が幽霊に見えた。
香川京子が長谷川一夫を追うシーンも、ストーリーに泣けたというより、画の素晴らしさに泣けた。
これはもう、日本の恋愛映画の最高峰と言って良いだろう。
これと肩を並べられる恋愛映画は、いままでぼくが観たなかでは「あの夏、いちばん静かな海」ぐらいだ。
「ロミオとジュリエット」なんて目じゃないぜってぐらいに、悲恋モノとして傑出している。
私生活でまったく良いことのない私であるが、溝口健二に出会えたことが最近では唯一幸せなことである。
★★★★★
駿河シカヲ
今回は『僕の彼女はサイボーグ』であります。
<作品解説・詳細>
僕の彼女はサイボーグ - goo 映画
20歳の誕生日、祝ってくれる友達もいないジローは、街で“彼女”と出会う。最高に楽しい一日を過ごすが、誕生日が終わる頃、彼女は姿を消してしまい、それから会うことはなかった。1年が過ぎ、去年と同じように一人で誕生日を祝っているジローの前に、“彼女”は現れた。必ずまた会えると信じていたジローは喜ぶが、再会した彼女は何だか去年と違うような…。実は、“彼女”は未来から送り込まれたサイボーグだったのだ!
『猟奇的な彼女』のクァク・ジェヨン監督と日本スタッフが組んだ、繊細でパワフルな“彼女”と、ちょっと頼りないジローのピュアで切ないラブストーリー。恋愛初心者のジローは、未来から送り込まれた“彼女”と共同生活をすることに。大食いで力が強く、ちょっと風変わりな“彼女”に、いつか恋している自分に気付くジロー。しかし、サイボーグの“彼女”に、気持ちが伝わるのか? 終盤に向かうに連れ、ジローの一途さが切ない。主演は、「ホタルのヒカリ」の綾瀬はるか、『恋空』の小出恵介。綾瀬はるかの小悪魔っぽさもキュートだが、小出恵介の三枚目っぷりもチャーミング。ダメ男もスマートに演じられるのが本物のイケメンの証なのかも。
<レビュー>初めての韓国映画の鑑賞がクァク・ジェヨン監督作品だった人は不幸である。
この男のセンスは最悪なのである。
悪趣味もいいところだ。
なにしろ『僕の彼女を紹介します』で、エックソJAPONの曲を垂流しにする漢である。
今回もわざととしか思えないセンスの悪さが存分に発揮されていて、非常に(不)愉快であった。
毎度のことながら、タイムパラドクスの矛盾点などどうでも良い。
理系の人間には向かない映画だ。
あくまでも大味な恋愛映画としての醍醐味を味わって欲しい。
綾瀬はるかはかわいい。
綾瀬はるかのかわいさとクァク・ジェヨン監督の胸糞が悪くなるような演出(決して褒め言葉ととらないように。タランティーノやティム・バートンなどのそれとは根本的に異なる)を堪能しておくれ。
出演者は日本人で舞台も日本。
それなのに、これはどうみても韓国映画。
というよりも、クァク・ジェヨンの映画。
悪い意味で個性的なアホ監督である。
でもぼくはクァク・ジェヨン作品を三つも観てしまっていることになるのである。
あっはっはっは。
もう二度と観ねー。
★★★☆☆
こんにちは。またはこんばんは。またはおはようございます。
駿河シカヲです。
今回はダーティハリー3です。
<作品解説・あらすじ>
ダーティハリー3(1976) - goo 映画
『ダーティハリー』シリーズ第3作目。サンフランシスコの行動派刑事、ハリー・キャラハンを主人公にしたアクション映画。製作はロバート・デイリー、監督はイーストウッドの監督・主演作の助監督を勤めた新人ジェームズ・ファーゴ、脚本は「タワーリング・インフェルノ」のスターリング・シリファントとディーン・リスナー、撮影はチャールズ・ショート、音楽はジェリー・フィールディング、編集はフェリーズ・ウェブスター、美術はアレン・E・スミスが各々担当。出演はクリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ、ブラッドフォード・ディルマン、タイン・デイリー、ジョン・ミッチャム、デヴァレン・ブックウォルター、アルバート・ポップウェルなど。日本語版監修は高瀬鎮夫。デラックスカラー、パナビジョン。1976年作品。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
サンフランシスコ市警殺人課のハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)は、相棒のフランク(ジョン・ミッチャム)と市内をパトロール中、酒屋に押し入った強盗事件に駆り出された。現場に直行したハリーは強盗一味の要求の一つである車に乗るやいなや、そのまま店の中に突っ込み、慌てふためいている犯人たちにハリーの愛銃マグナム44を見舞った。ところが、ハリーの事件処理の仕方が乱暴だということで刑事課長(ブラッドフォード・ディルマン)に怒鳴られ、人事課に配属されてしまった。そんなある日、ボビー・マックスウェル(デヴァレン・ブックウォルター)をリーダーとする若い過激派グループが、陸軍の兵器庫に押し入り、ダイナマイト、自動小銃、新型バズーカ砲を盗み出した。しかも、パトロール中に異常に気付いたフランクに重傷を負わせ、そのまま逃走した。フランクを病院に見舞ったハリーは、息を引き取る寸前まで、犯人たちの逮捕を頼んでいったフランクの姿に、犯人たちへの激しい怒りを燃やすのだった。殺人課に戻ったハリーのフランクに替わる相棒として、刑事に昇進したばかりの女性、ムーアが付けられた。過激派の行動は意外に早く開始された。それも、警察署のトイレが爆破されたのだ。その直後、ハリーは不審な黒人を発見、大追跡の後に、ムーアの協力も得て逮捕した。黒人の過激派が絡んでいるとにらんだハリーは、スラムの指導者ムスターファの棲家へ乗り込んだが、彼は事件に無関係であることが判った。だが、ハリーが帰った後、刑事課長が指揮する警察隊が、ムスターファを首謀者として逮捕。この迅速な犯人逮捕によって、ハリーとムーア、そして刑事課長は、市長から表彰されることになったが、ムスターファが主犯でないと確信しているハリーは、表彰されるのを拒否し、課長に警察手帖を渡すと、会場を去り、独自の調査を開始した。しばらくして、過激派グループは、白昼、市長を誘拐し、莫大な活動資金を要求した。何の手がかりも得られぬまま、捜査にあせりを感じてきたハリーに、彼のおかげで釈放されたムスターファが、犯人たちの情報を提供した。ムスターファによると、犯人は、ベトナム帰りの殺人狂ボビー・マックスウェルをリーダーとする過激派グループで、彼らは今、その昔、アル・カポネも送り込まれ、脱獄不可能の刑務所として恐れられた〈アルカトラス刑務所〉の廃墟にたてこもっている、というのだ。ハリーは早速、ムーア刑事とともに、市長救出と、犯人逮捕のために〈アルカトラス〉へ乗り込んだ。過激派グループとの激しい銃撃戦が始まり、ハリーは、1人、2人と殺していき、その間に、ムーアは、市長を無事救出に成功した。そして、ついにハリーはボビーを追いつめたと思った瞬間、ムーアと市長が飛び出し、ムーアはボビーに射殺されてしまった。ボビーは市長を人質に、島の海岸添いに建てられた塔に登った。ムーアの死に怒りが爆発したハリーは、ボビーが落としていったバズーカ砲を塔へ向けて構えた。バズーカ砲を向けられていると知ったボビーは、恐ろしさのあまり、市長を塔の途中で離し、屋上で泣き叫んだ。瞬間、ハリーのバズーカ砲が火を吹き、ボビーもろとも、塔の上半分が吹っ飛んだ……。(ワーナー映画配給1時間37分)
<レビュー>
パート3もラストは苦々しいけれども、全体的に深みがないというか、薄っぺらい印象がある。
おそらく犯人がしょっぱいからであろう。
1のスコルピオ、2の白バイ警官部隊のようなインパクトが無いのである。
それから、作品のテーマがしょっぱいというのもあるだろう。
女性の社会進出がどうのこうのみたいなテーマである。
だが、テーマ云々に関しては日頃からそんなものは崇高だろうがしょっぱかろうがどうだっていいと思っているので、この際無視する。
なんといっても不満なのはラストの犯人のやっつけ方である。
せっかくの44マグナムを使わず、バズーカ砲でドカーンとやって終わりという殺し方はキャラハン刑事でなくとも出来るのだ。
といいつつも、同じく44マグナムをとどめに使わなかったパート5での犯人の死に方は好きである。
なぜなら死に方がむごたらしいからだ。
アホみたいな殺し方なのだが、ちゃんと殺された姿もアホみたいになっていて素晴らしい。
まあそのへんはパート5のときに取り上げよう。
だからそう、なにが言いたいかというと、バズーカ砲で吹っ飛ばされた犯人のむごたらしい死体ぐらい映せって話だ。
ぼくは酷いことを言っているだろうか。
惨殺された人間の惨殺死体は映画ではちゃんと映すべきなのだ。
だって、キャラハンは実際に、敵にバズーカ砲をぶっ飛ばしたんだぜ。
あんなもの絶対よけられないぜ。
酷い殺しかただぜ。
酷いやり方で殺されたら、そのときはちゃんと、こんな風になりますよっていう死体を見せるべきだぜ。
そのほうが倫理的だぜ。
毎回登場するキャラハンのパートナーは、必ず殉職するか大怪我を負う。
必ずである。
本作では初の女性刑事のパートナーなのだが、
女性にも関わらず、ちゃんと殺された。
この辺の冷徹な哲学は良いと思う。
ダーティハリーは格好良いが絶対に関わりたくない、どの作品にもそう思わせるような哲学が根底にある。
★★★☆☆
駿河シカヲ
うぃっす。どうもっす。駿河シカヲっす。
最低な気分っす。
今回はダーティハリー2みたいな感じっす。
監督はテッド・ポスト的な人っす。
よろしくっす。
<作品解説・あらすじ>
ダーティハリー2(1973) - goo 映画
自ら暴力を持って悪を制するハリー・キャラハン刑事が主人公の「ダーティハリー」シリーズ第2作目。製作はロバート・デイリー、監督は「続・猿の惑星」のテッド・ポスト、ジョン・ミリアスの原案をミリアス自身とマイケル・チミノが脚色、撮影はフランク・スタンレー、音楽はラロ・シフリン、編集はフェリス・ウェブスターが各々担当。出演はクリント・イーストウッド、ハル・ホルブルック、ミッチェル・ライアン、デイヴィッド・ソウル、フェルトン・ペリー、ロバート・ユーリック、キップ・ニーヴェン、ティム・マティソン、クリスティーヌ・ホワイト、リチャード・デヴォンなど。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
ダーティハリーことハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)は忙しかった。ハイジャック事件を片づけると次は4人組の武装警官による容疑者事件に取り組まなければならなくなった。数日後、今度は山の手の別荘地で殺人事件が起こった。殺されたのは法の盲点をついてのし上がってきた悪党だったが、家族、友人たちと一緒にプールで遊んでいた所を例の謎の警官が、マシンガンで皆殺しという残虐さである。さらに第3、第4の犠牲者が出た。売春組織と麻薬組織の大物だった。そしてパトロール中のハリーの友人チャーリー・マッコイ(ミッチェル・ライアン)も射殺された。親友マッコイの仇をを討つためにも、ハリーは捜査に全力をあげた。そしてとうとうその尻尾を掴んだ。犯人はベン・デービス(デイヴィッド・ソウル)、ジョン・グライムス(ロバート・ウィック)、フィル・スイート(ティム・マティソン)、レッド・アストラカン(キップ・ニーヴェン)の4人の新米警官だった。だが、彼らは何ら悪びれた所はなく、自分たちはナマぬるい法律にかわって悪を裁いただけだと主張し、逆にハリーを脅しにかかった。犯人たちはハリーの証拠固めを妨害し、彼のアパートに爆弾を仕掛けた。間一髪でハリーは助かったが、相棒の黒人警官アーリー・スミス(フェルトン・ペリー)は即死だった。怒り心頭に達したハリーは上司のブリッグス(ハル・ホルブルック)に全ての証拠が揃ったことを連絡した。早速やってきたブリッグスの車で本署に向かおうとしたが、意外にもブリッグスは若者グループのリーダーだった。拳銃を取り上げられたハリーの後からは死刑執行人たちがつけてくる。一瞬のスキに乗じたハリーはブリッグスを叩きのめしハンドルを奪った・シスコの急坂で猛烈な追撃戦が始まった。ハリーは造船所に廃棄されていた空母の中へ逃げ込んだ。彼は血みどろに傷つきながらもついに一味をやっつけた。
<レビュー>
ダーティハリーはシリーズは2までが面白いというのが定説である。
ぼくもだいたいそうだなあと思う。
ただ厳密にいうと、3以降がつまらないというより、3がつまらない。
4で少し持ち直している。
まあそれでも2までの面白さは無い。
パート1でのドン・シーゲルのダイナミックな演出は素晴らしかった。
ただし、2のテッド・ポストも頑張ったと思う。が、スケール感はやや減退した印象。
44マグナムがドーンとアップに映し出されてはじまるオープニングが素晴らしい。
だがそれにしても、2以降は西部劇みたいなノリになってしまっている。
良い悪いの話ではないが、個人的には1の重苦しさを継承して欲しかった。
まあこの作品だって他の刑事モノに比べれば重苦しいのではあるが。
単純にアクション映画としてかなり面白い。
ハイジャック、カーアクション、ラストの銃撃戦、すべてに興奮。
話も良く出来ていて面白い(脚本はジョン・ミリアスとマイケル・チミノ!)。
1から3への橋渡し的な印象。
過渡期を経て、このあとダーティハリーは完全なエンターテイメント映画に移行するのである。
★★★★★
駿河シカヲ
荒んでいます。駿河シカヲです。
今回はキム・ギドク「リアル・フィクション」です。
キム・ギドクは私が最も注目している監督のひとりです。
いつもはgoo映画のリンクで作品の概要・あらすじを紹介するのですが、
この作品はgoo映画に無かったので、wikipediaからのコピペで勘弁を。
<作品概要・あらすじ>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
実験的手法を用いた韓国映画である。脚本を書いたキム・ギドクを総監督として、12人の監督がオムニバス的にシーンを撮り、チュ・ジンモを主演に、2000年4月25日の午後1時から撮影を始め、午後4時20分に終了するという韓国映画史上最短記録(3時間20分)で撮影された映画である。脚本が巧みであり、見終わった後に何が現実で何がフィクションであったのかがしばらく理解できないような不思議な感覚に陥る、まさに「リアル・フィクション」の世界を表現した映画といえる。
「私」(チュ・ジンモ)は、マロニエ公園で、近くの電話ボックスを盗聴しながら肖像画を描いている。描いた絵を下手だとののしられても、その絵を破られても、チンピラに売上げを横取りされて殴られても、感情を抑え込んで、文句ひとつ言わずに静かにそこに座っている画家である。ある日、「私」の前に現れた少女(キム・ジナ)に連れられて雑居ビルの一室に入って行くと、そこには舞台があり、激しい感情を吐露する<もう一人の私>である俳優(ソン・ミンソク)が立っており、「私」を殴りつけ、「私」にピストルを持たせて、「撃て」と言い始めた。
<レビュー>
韓国史上最短記録で撮られたというが、記録更新をめざして撮ったのならば、それは本当にくだらないことだと思う。
そんなことはどうでも良いことなのである。
史上最短記録であってもそうでなくても、これは非常に刺激的で面白い映画である。
妄想だったというオチは北野武の「3-4x10月」と共通している。
何かと比較される両者である。
ときどき共通点がでてきてしまうから不幸にも比較されてしまうのだ。
なるべく両者を比較するのはやめておきたい。
というよりも、キムギドクを「韓国の北野武」というふれこみは無視してゆきたい。
北野武と比較する以前にキムギドクはキムギドクである。
この人の映画を見れば見るほど、北野武という枕詞が邪魔になってくる。
この作品は基本的にワンシーンワンショット、つまり長廻し撮りである。
何故なら時間がないからである(NGは出さずにすべて一発本番OK)。
ただ金がないとか、ただ時間がないとか、そういう理由でのワンシーンワンカットは、
溝口健二のように人物の動きと背景が緻密に計算され尽くされた用意周到なものではなく、
どこかしら刹那的で衝動的で暴力的な匂いがする。
そうするとそれが気がつけば、細かいカット割りが主流のTVドラマ(堤幸彦とか)のような、いかにも神経質でそれでいて投げっぱなしで無責任なショットと同じ視点にたってしまっている、ということを我々は自覚してゆかなければならぬ。
つまり、この映画は実験的でもなんでもなく、ただの失敗作なのである。
取るに足らぬことだ。
いつものキムギドクの映像美も感じられない。
だがしかし、この映画は面白い。
やっぱりどう考えても異常な映画だからだ。
上に書いたのは、キム・ギドクを異端と片付けずに言いくるめることはできないだろうかと思案した末に無理矢理「これは実験映画ではなく、ただの失敗作だ」とねじ伏せてみようと試みただけのことなのである。
ぼくは無力である。
これはいまのところキム・ギドクの裏ベスト1作品。
★★★★★
駿河シカヲ
「死ね」と思った人は、ぼくを殺して欲しい。
自宅で待ってます。
今回は三隅研次『座頭市物語』です。
<作品解説・あらすじ>
座頭市物語(1962) - goo 映画
子母沢寛の随筆集「ふところ手帖」から「色の道教えます 夢三夜」の犬塚稔が脚色、「銭形平次捕物控 美人蜘蛛」の三隅研次が監督した遊侠もの。撮影は「蝙蝠屋敷」の牧浦地志。
※ストーリーの結末が記されているので注意!
下総飯岡の貸元助五郎の所へ草鞋を脱いだ異風なやくざは、坊主で盲目で人呼んで座頭市。ツボ振りでも居合抜きでも目明きの及ばぬ市の腕を見込んだ助五郎は、彼を客分扱いにし乾分蓼吉を世話係につけた。やくざ嫌いでやくざの飯を食う市は、釣で逢った病身の浪人平手造酒と心をふれ合う思いをしたが、その造酒は助五郎とは犬猿の仲の笹川親分の食客となった。助五郎は新興勢力の笹川一家を叩き潰す機会を狙っているが、その時は市と造酒の面白い勝負が見られると乾分たちにうそぶいた。その頃、身投げしたか落されたか蓼吉の女お咲が水死体となって溜池に浮かんだ。何気なくそこを訪れた市は再び造酒と逢い、その夜二人は酒をくみかわした。お互いに相手の剣に興味を持ったが、やくざの喧嘩に巻込まれて斬り合うのは御免だと笑い合った。この時造酒を訪れた笹川の繁造は、市が飯岡の客分と知り乾分に市を斬るよう命じた。帰り途、市を襲った乾分は市の刀に一たまりもなかった。市の腕前に驚いた繁造は、造酒に喧嘩の助勢を頼んだが造酒は頭から断った。一方、市は昨夜の答礼に酒を贈ろうと思い蓼吉にその使いを頼んだが、代りに行った弟分の猪助は間もなく無惨な死体となって飯岡の鉄火場で発見された。笹川は、この機会を利用して喧嘩を売る決意をしたがそんな時、造酒が血を吐いて倒れてしまった。それを知った助五郎は好機到来とばかり喧嘩支度にかかった。笹川の繁造は、飯岡勢を笹川宿場の迷路へさそい込み座頭市は鉄砲でうちとる策略を立てた。それを知った病床の造酒は鉄砲をうつことだけはやめてくれ、その代り自分が働くと繁造に頼むのだった。そこへ造酒を訪ねた市は、彼が友情のため死を決して喧嘩に加わったことを知った。笹川の作戦は功を奏し飯岡方は苦戦に陥った。血をはきながら斬りまくる造酒。その行手には座頭市が立っていた。ついに二人の宿命的な対決の時が来たのであった。座頭市の剣に造酒は倒れた。座頭市は彼を慕うおたねと共に下総を去っていくのだった。
<レビュー>
勝新太郎といえば座頭市であり、三隅研次といえば座頭市である。
座頭市シリーズをこうしてはじめて観たわけであるが(北野武のは観たことがある)、
想像していたものとは結構違っていた。
これからそれら点をあげてゆく。
まず、冒頭のシーン。杖をついて歩く盲目の勝新が、盲目ゆえに目測をあやまってつまずく。
ここで、あれ?と思う。
はたしてこの盲目の男が戦いで勝てるのか、と。
座頭市に対して無敵の超人をイメージしていたぼくはまず違和感を覚えた。
それから、殺陣のシーンが思ったより少ない。
座頭市が仕込み杖を抜くのはたしか二回しかないし、
実際に戦うのは最後だけである(ちなみに敵役の天知茂は非常に良い味をだしている)。
しかし、いざ剣を抜いたときのインパクトは凄い。
勝新の驚異的な瞬速抜刀術は、観る価値が大いにある。
ただ、それだけを期待して観たら、かなり出し惜しみしてくるのでイライラするかもしれない。
そして、勝負は一瞬で決まる。
それがとてもかっこいい。
三点目は、思ったより暗いということ。
ダーティーハリーをはじめて観た時に残った苦々しい感覚に似ている。
これはただのエンターテイメント時代劇では無い。
★★★★☆
どうってことのない映画を観た。
梅沢利之監督の「イッツ・ア・ニューデイ」という映画だ。
ていうか「あ行」の映画、やけに多くないかい。
<公式HP>
http://www.newday-movie.jp/
<作品概要>
goo 映画
東京国際映画祭公式出品作品。突然ストレスで周囲の声が聞こえなくなってしまった冴えない商社マンと、MBAを持つスーパー派遣社員との心の交流を描くヒューマンドラマ。仕事にがんばりすぎて、ちょっと孤独に感じた時、毎日の生活に息苦しさを感じた時、きっと見守ってくれる人はいる。そんなメッセージがこめられた作品。
<レビュー>簡単に済ませたい。
これは全然大したことのない作品だ。
テレビドラマで十分だ。
よく、「世にも奇妙な物語」で、ほのぼの感動系の話がときどきあるでしょう。
あんな感じです。
だからこんなものは三十分でいい。
とか言っておきながら、ぼくは退屈することなく、楽しく観たし、
ほどよく癒されました。
映画だと思えば肩が凝るのです。
暇つぶしに二時間ドラマを観たと思えば、全然オッケーなのだよ。
主演の青山倫子さんは初めて見たけれども、
調べたら、モデルさんとして大変有名らしい。
CMにもたくさんでているらしい。
たしかに美人ではあるな。
もう一人のサラリーマンの時津真人という人も、
特にイケメンでもないが、それだけになかなか好感がもてる。
いわゆる普通の好青年ですな。
展開の都合良すぎの、ハッピーエンドの、いたって平和な、
暇つぶしに最適な、ハートウォーミングな、大したことのない、
人が虐殺されたりしない、そんな、あ、そんな、
俺みたいな腐った奴が観てはならない映画であった。
が、俺はときおりニコニコしながら観ていた。
バカだ。死んでほしいと思うよ俺みたいな奴は。
★★★☆☆
荒んでいます。駿河シカヲです。
わたくしの大好きな名匠・小津安二郎の『浮草』を観ました。
小津作品の中でも、いろんな意味で異色といえます。
<作品概要>
浮草(1959) - goo 映画
「お早よう」のコンビ野田高梧と小津安二郎の共同脚本を小津安二郎が監督したもので、ドサ廻り一座の浮草稼業ぶりを描いたもの。撮影は「鍵(1959)」の宮川一夫が担当した。
<あらすじ>※ストーリーの結末が記載されているのでご注意ください。
志摩半島の西南端にある小さな港町。そこの相生座に何年ぶりかで嵐駒十郎一座がかかった。座長の駒十郎を筆頭に、すみ子、加代、吉之助など総勢十五人、知多半島一帯を廻って来た一座だ。駒十郎とすみ子の仲は一座の誰もが知っていた。だがこの土地には、駒十郎が三十代の頃に子供まで生ませたお芳が移り住んで、駒十郎を待っていた。その子・清は郵便局に勤めていた。お芳は清に、駒十郎は伯父だと言い聞かせていた。駒十郎は、清を相手に釣に出たり、将棋をさしたりした。すみ子が感づいた。妹分の加代をそそのかして清を誘惑させ、せめてもの腹いせにしようとした。清はまんまとその手にのった。やがて、加代と清の仲は、加代としても抜きさしならぬものになっていた。客の不入りや、吉之助が一座の有金をさらってドロンしたりして、駒十郎は一座を解散する以外には手がなくなった。衣裳を売り小道具を手放して僅かな金を手に入れると、駒十郎はそれを皆の足代に渡して一座と別れ、お芳の店へ足を運んだ。永年の役者稼業に見切りをつけ、この土地でお芳や清と地道に暮そうという気持があった。事情は変った。清が加代に誘われて家を出たまま、夜になりても帰って来ないというのだ。駅前の安宿で、加代と清は一夜を明かし、仲を認めてもらおうとお芳の店へ帰って来た。駒十郎は加代を殴った。清は加代をかばって駒十郎を突きとばした。お芳はたまりかねて駒十郎との関係を清に告げた。清は二階へ駆け上った。駒十郎はこれを見、もう一度旅へ出る決心がついた。夜もふけた駅の待合室、そこにはあてもなく取残されたすみ子がいた。すみ子は黙って駒十郎の傍に立って来た。所詮は離れられない二人だったようだ。
<レビュー>
傑作であることには間違いないが、
小津らしからぬ点がいくつもある。
これから、それについて語る前に、
ひとつだけ言っておきたいことがある。
最初に「傑作であることには間違いない」と言ったけれど、
小津の映画を「傑作」と言ってしまうのはどうも違和感がある。
傑作かどうかを論じる以前に、とにかく小津映画というのは変わっているのだ。
小津映画を観たことのない映画好きの人は、とにかくどれでも良いからみてみるとよい。
ゴダールが意図的に変態を着飾っているとしたら、
小津はナチュラルボーンな変態野郎だ。
小津に比べたら、ゴダールなんぞはただの中二病だと思うのだよ(ただしゴダールは偉大だ)。
言いたいことがわかるかい。
だから、傑作という以前に、小津映画は小津映画でしかないような気がする。
前置きは以上。
で、この作品の小津らしからぬ点について。
まず、色彩がやけに艶やかである。
小津が好きな人にはこれをうけつけない人もいるだろう。
色彩豊かであるが、悪く言えばギトギトしている。
これは撮影が宮川一夫であることが関係しているのかもしれない。
また、ストーリーが起伏にとんでいる。
小津といえば、話自体はいつも平凡なホームドラマなのだが、
今回は、ちょっとドラマチックだ。
キャラクターもいつも以上に人間的だ。
つまり腹黒いってことだ。
それから、キャストがいつもと違う。
これは松竹ではなく、大映で撮っているせいだ。
あの絶対的なレギュラーである笠智衆がカメオ出演にとどまっている。
突貫小僧はでていたかなあ。覚えていない。
杉村春子はちゃんとでていた。
あの人、妙に気に入らないのだ。
性格が悪そうで、なんだか腹が立つ。
でもそこがいいんだろう。
それから、小津の戦後のカラー作品といえば原節子だが、彼女は出演していない。
そのかわり、二人の大女優・若尾文子と京マチ子が出ている。
演技のことはよく分からないが、
京マチ子は目で演技できる女優だと思う。
素晴らしい。
それから、若尾文子は美しい。
非常に美しく、かわいらしい。
年をとってからの、黒川紀章との2ショットの印象が強いけれども、
若いころは大変な美人であったのだ。
実のところ、原節子はそんなに好みではない。
若尾文子のほうがずっと好きだ。
まあ、香川京子には敵わないのだが。
女優の話はさておき、
なんといっても違和感があるのは、
小津映画なのに登場人物が関西弁をしゃべるのだ。
だが面白いのは、登場人物がどんなアクセントでしゃべろうが、
結局は例の棒読みセリフ回しになるのだ。
恐るべし小津安二郎。
そのほか、特にいうことはない。
いくら異色だと言っても、三十分もすれば違和感はなくなり、
いつもの小津ワールドに浸れるのだ。
そもそも小津安二郎ほど異色の映画は無いと思っているので、
どっちにしろこれは「変な映画」なのだ。
だから結局、松竹で撮ろうが、
大映で撮ろうが、
宮川一夫が撮ろうが、小津映画はどこをどう切っても小津映画なのだ。
なんと素晴らしいことだろう。
偉大なるマンネリと言うべきか。
ある種、小津は映画界のラモーンズだね。
★★★★★
駿河シカヲ
駿河シカヲです。
今回はハワード・ホークス「三つ数えろ」です。
これは、実はすごい映画でありました。
:
<作品解説・詳細>
三つ数えろ(1946) - goo 映画
「紳士は金髪がお好き(1953)」のハワード・ホークスが1946年に製作・監督に当った推理映画で、「深夜の告白」のレイモンド・チャンドラーの処女作を「脱出(1944)」のウィリアム・フォークナー、リー・ブラケット、「北京超特急」のジュールス・ファースマンが脚色した。撮影は「暴力に挑む男」のシド・ヒコックス、音楽は「欲望の谷」のマックス・スタイナー。「裸足の伯爵夫人」のハンフリー・ボガート、「百万長者と結婚する方法」のローレン・バコール、「腰抜けM・P」のジョン・リッジリー、「地獄から来た男」のマーサ・ヴィッカーズ、「殺人者はバッジをつけていた」のドロシー・マローン、「銅の谷」のペギー・ヌードセン、レジス・トゥーミーらが出演する。
※ストーリーの結末が書かれているので注意!
私立探偵フィリップ・マーロー(ハンフリー・ボガート)は両肢不随の老将軍の妹娘で抑欝症気味のカーメン(マーサ・ヴィッカーズ)が古本屋アーサー・ガイガーから恐喝状をつきつけられたことについて調査依頼をうけた。将軍は同時に姉娘ヴィヴィアン(ローレン・バコール)の夫リーガンが行方不明になったことも心配していた。ガイガー家を探りに行ったマーローはあられもない格好でガイガーの死体の傍らに佇むカーメンを発見し、家へ送りかえした。彼女はここで秘密写真を撮られていた。翌日彼は地方検事局のバーニー・オールズから、将軍家の自動車が暴走して前にカーメンと駈け落ちしかけたことのある運転手テイラーが死んだニューズを知らされた。ヴィヴィアンはマーローの事務所を訪れるうち彼に恋心を抱くようになった。マーローは恐喝の張本人がいかさまギャングのジョーであることをつきとめたが、ジョーは彼をガイガー殺しの犯人と思いこんでいるガイガーの身内に殺された。しかし真犯人は死んだテイラーであった。リーガンと関係のあったモナという女の夫で暗黒街の大物エディ・マースがリーガン事件に関係あると睨んだマーローは、リーガンの仲間ハリーに当たって見ようとしたが、一足おそくハリーはエディの手下カニノに毒殺された。マーローはカニノの後を追ったが、計略にかかって捕えられ、危いところを居合せたヴィヴィアンに救われた。ガイガーの家に行ったマーローは電話でエディを呼びつけ、彼からリーガンがカーメンに殺された事実を聞き出した。ガイガーの家を取り囲んだエディの手下たちはマーローの策にかかって誤って発砲し親分エディを殺してしまった。マーローは検事局のバーニーにリーガン殺しはエディであったと告げた。
とにかく、まず観終えた人のほとんどが思うだろう。
結局、運転手(テーラー)を殺したのは誰だったの?と。
しかし、気にするなかれ。
制作陣も誰が運転手を殺したのか分からないのである。
しかも、原作(大いなる眠り)を書いたレイモンド・チャンドラー氏ですら、運転手殺しの犯人を知らないのだ。
作っているほうが分からないのだから、僕らに分かるはずがないのだ。
しばらくして、とんでもないことに気づく。
とんでもないというのは、あくまでもぼくにとってとんでもないことなのであるが。
実はこれ、主人公である探偵のマーロウ(ハンフリー・ボガート)の出ていないシーンがないのだ。
ということは、これはすべてマーロウの一人称で語られる映画なのである。
だから、マーロウが見ていること、聞いたこと以外は映画の中で語られていないわけである。
と、いうことは。
ここからが更に大事なのだが、
マーロウに興味のないことは、どうでも良いことなのである。
彼の興味はエディ・マースと、ヴィヴィアン(ローレン・バコール)にあるわけで、
運転手殺しの犯人などは最終的に自分と関係のないことだから、興味が無かったのだ。
だから、運転手殺しの犯人が明かされないまま、映画が終わるのだ。
ぼくはそう思う。
この、主役目線でしか語られないという制約が非常に面白い。
マーロウがエディをピストルで撃った時のシーンはそれが見事なアクションシーンに結実している。
詳しくいうと、こんな感じ。
マーロウがドアに向かって二三発、発砲する。
ドアの向こうにはエディがいて、エディは撃たれたわけだが、それは画面には映らない。
なぜなら、撃たれたエディがマーロウには見えていないからだ。
それで、即死したエディがドアに身を預け、ドアがこちら側に開く。
それで、マーロウがエディを見事に撃ち抜いたことを、マーロウとともに観客は知る。
という具合。
「自分は映画を語るだけ」と言ったホークスは、職人的な監督である。
素晴らしいと思う。
映画は、ストーリーをどう語るかである。
それはストーリーそのものよりはるかに大事なことだ。
いかに語るか。
ホークスは、「大いなる眠り」を主人公の一人称で語った。
この作品を観たとき、鋭敏に研ぎ澄まされたような印象をもったのは、そういうことだったのだ。
これはやられました。
素晴らしい。
★★★★★
今回は井筒和幸監督の『パッチギ!LOVE&PEACE』です。
パッチギ!の一作目はなかなか良かったのですが・・・。
<公式サイト>
http://www.pacchigi.jp/loveandpeace/
<作品解説・詳細>
パッチギ!LOVE&PEACE - goo 映画
1974年、東京。江東区枝川でサンダル工場を営む叔父夫婦のもとに身を寄せるリ・アンソン一家。難病に冒された幼い息子チャンスの治療のために京都から出てきたものの、医師の下した診断は厳しく、さらに多額の費用が必要なことがわかり、乱闘騒ぎをきっかけに親友になった元国鉄職員の佐藤と命がけの計画を立てるアンソン。妹のキョンジャは稼ぎのいい芸能界に飛び込むが、人気俳優の野村と出会い恋に落ちて…。
68年の京都でエネルギッシュに青春の日々を送った『パッチギ!』のアンソンとキョンジャの兄妹が帰ってきた。大人になった彼らはさらなる厳しい現実に立ち向かうことになる。日本の植民地時代に生きた2人の父親の若き日の姿も交え、親子三代にわたるドラマが展開するが、それは「在日」の人々の物語にスポットを当てると同時に、非「在日」も含めた矛盾だらけの日本の姿も痛烈に浮かび上がらせる。ありきたりな続編ものとは一線を画し果敢に攻め続ける井筒和幸監督は、徹底的に生きることを肯定する。何が何でも生き延びてやるという必死さこそがパッチギの心意気なのだ。新たに主役に抜擢された井坂俊哉と中村ユリも好演。
<レビュー>
前作は、井筒監督が渾身の力を振り絞って作った、これぞ井筒映画ともいうべき、まさに監督の集大成と呼ぶにふさわしい作品であったし、傑作であったという声もある。
しかしながら、前作の続編であるこの作品の評価は非常に辛い。
ぼくも世間の評価と同じく、出来は良くないと感じた。
映画を作る際の方法論は前作とまったく同じである。
ラストの盛り上げ方にしろ、何もかも似ている。
それなのに、なぜ今回は失敗だったのか。
素人のぼくにはよく分からないけれども、
エンターテイメント映画の傑作をつくるには、ある程度強運も必要なのではないだろうか。
前作は、非常に幸運に恵まれたのかもしれない。
映画に必要な部分、必要じゃない部分、下世話な部分、政治的メッセージ、喧嘩、青春、フォークソング、恋愛、在日問題などなどありとあらゆるものを二時間映画という小さな土鍋にぶち込んで作ったわけだが、
それが奇跡的に共存して見事な青春群像劇になったのが前作。
そもそもあれほどいろんなものを鍋にぶちこめば、普通は味が邪魔し合って失敗するのであろう。
だから、今回の失敗は妥当なのである。ような気がする。
井筒監督の持ち味は、不良の格好悪くてやけくそな熱気を映像の中にダイレクトに伝えられることだ。
そのへんは、『仁義なき戦い』や『バトルロワイヤル』の深作監督にも通じる部分がある。
バトルロワイヤルのラスト、「走れ!」という字幕をデカデカと映して、文字でメッセージを伝えてしまうという禁じ手を犯してしまった深作監督は、映画的に正しいとか正しくないとか関係なしに、熱い。
というか、映画的には完全に間違っている。
あれにはぼくは思わず笑ってしまった。
ただし、深作監督は熱い監督だと思った。
『仁義なき戦い』の手ブレおかまいなしのキャメラワークだって、映画的には「無し」なんだろうが、あれでこそ『ゴッドファーザー』の重厚さと対極をなす日本のヤクザの熱気、バイオレンス、悲哀といったものがでると思うのだ。
話がそれた。
パッチギ!シリーズのラストのたたみかけるようなシーンの連続は、くさいし、わざとらしいし、名曲「イムジン河」は卑怯だしTVドラマっぽいけど、嫌いじゃない。
ええいもうなにもかもやっちまえ!みたいなやけくそな感じが伝わってきて良いと思う。
★★★☆☆
駿河シカヲ
滝田洋二郎「陰陽師」を観た。
<作品詳細・解説>
陰陽師(2001) - goo 映画
平安京を舞台に、陰陽師・安倍晴明の活躍を描く時代活劇。監督は「秘密」の滝田洋二郎。夢枕獏の原作を下敷きに、「催眠」の福田靖、夢枕獏、「難波金融伝ミナミの帝王 劇場版PARTⅣ 借金極道」の江良至が共同で脚本を執筆。撮影を「ekiden」の栢野直樹が担当している。主演は、映画初出演の野村萬斎と「LOVE SONG」の伊藤英明。第56回毎日映画コンクール録音賞、第44回ブルーリボン賞主演男優賞(野村萬斎)、ゴールデングロス賞銀賞、第25回日本アカデミー賞最優秀録音賞&新人俳優賞(野村萬斎)ほか(優秀主演男優賞(野村萬斎)、優秀助演女優賞(小泉今日子)、優秀監督賞、優秀撮影賞、優秀照明賞、優秀編集賞、優秀美術賞、優秀音楽賞)受賞作品。
※結末が書かれているので注意!
謀反の罪をかけられて憤死した弟・早良親王の怨霊によって封じられた長岡京を捨てた桓武天皇が平安京に遷都してから150年、だが未だ都には鬼たちが跋扈していた。そんな鬼や妖怪を秘術を使って鎮めるのが、陰陽師と呼ばれる者たちの役目。ある日、帝と左大臣・藤原師輔の娘・女御任子との間に産まれた親王・敦平が原因不明の病に侵された。右近衛府中将・藤原博雅に助けを求められた陰陽師・安倍晴明は、早良親王の塚を守る為、人魚の肉を喰らい永遠の命を授かった青音という不思議な女を連れ内裏に上がると、敦平の体内の邪気を青音に移して命を救った。実は、敦平に呪いをかけたのは陰陽頭の道尊。彼は、都転覆を企んでいたのだ。敦平親王暗殺に失敗した道尊が次に狙いをつけたのは、帝の寵愛を受ける任子に嫉妬する右大臣・藤原元方の娘・更衣祐姫。彼女の生成を操って帝と敦平親王の命を奪おうと言うのだ。だがそれもまた、星のお告げで都の守り人となり、不思議な友情で結ばれた晴明と博雅によって阻止されてしまう。そこで、道尊は遂に早良親王の塚を破壊するという強行手段に打って出ると、早良親王の怨霊を体内に吸収し宮廷を襲った。そんな彼の強大な力の前に、博雅が倒れてしまう。博雅の命を救うべく、青音の命を博雅に移す泰山府君の祭を行う晴明。果たして博雅は蘇り、早良親王の怨霊をも鎮めることに成功した晴明は、更に道尊を結界に封じ込め倒すのであった。
<レビュー>
大した映画ではない。
滝田洋二郎の作品で当たりがでたためしが無いので(「おくりびと」はまだみていない)、もともと期待はしていなかったが。
ただし、この映画で一点だけ語られるべき点がある。
それは、主役の阿部清明を演じた野村萬斎が、なかなかちょっとしたものだったということだ。
今回の野村萬斎は、かなりの当たり役であった。
顔つきや所作はいかにも平安貴族らしく、さすが伝統芸能のプロフェッショナルである。
特にすぐれていたのは、彼の陰陽術をとなえる際のささやきである。
これが非常に妖艶ですばらしかった。
また、陰陽術を使うときの指の仕草もきれいで、女性はうっとりするのだろうなあと思った。
対して酷いのは源博雅なる人物を演じた伊藤英明である。
野村萬斎と比べると、どうしようもなく大根なのである。
こういった役は妻夫木君あたりが適役であろう。
日本沈没を観た。
残念ながら、予想通りの駄作。
<作品詳細・解説>
日本沈没 - goo 映画
日本各地で大規模な地震が頻発する中、潜水艇《わだつみ6500》のパイロットの小野寺は、同僚の結城と共に地球科学博士・田所の指揮の下、深海調査に参加。その結果、大地震と噴火活動によって日本が1年以内に沈没するという驚愕の事実を知る。総理大臣・山本は諸外国に日本国民の受け入れを要請し、危機管理担当大臣の鷹森は日本を救う方法を求めて田所を訪ねる。そんな中、小野寺は被災現場でハイパーレスキュー隊員の玲子と出会い、お互いに心引かれるのだった…。
日本人が難民になる。国家という後ろ盾を失って、見知らぬ土地をただの厄介者として漂流する日が来るかもしれない。それはまさに日本人としてのアイデンティティーの喪失を意味する。73年にメガ・ヒットを記録した旧作から33年、『ローレライ』の樋口真嗣監督お得意の特撮技術によって新生『日本沈没』の沈みゆく日本の地獄絵は当然ながら迫力を増した。しかし、見どころはそれだけではない。非常事態においては選択の余地はないようでいて、実は個々人の生き方が問われ、生きるか死ぬかの瀬戸際ゆえに選び取る人生もあることを、草なぎ剛と柴咲コウが演じる小野寺と玲子をはじめとする登場人物たちが見せてくれる。その人間ドラマにこそ力点が置かれているのだ。
<レビュー>アルマゲドン+俺は、君のためにこそ死ににいく+出口のない海+夏子の酒
といったところだろうか。
レベルはどれにも及ばないが・・・。
ハリウッドのパニック映画をめざしたのだろう。
しかし、緊張感や緊迫感というものが、致命的に欠けていて、
目も当てられないような駄作になっている。
スリルもなければドラマも無い。
今回は特に言うべきところが無い気がする。
日本は金をかけると本当につまらない映画しか撮れないなあ。
★★☆☆☆
マダム葵です。
キャバ嬢だって風俗嬢だって立派に生きていると思うわ。
職業に貴賎なし。
何よりそこらの苦労知らずで買い物のことしか頭にない一流企業のOLなんかよりも人間的魅力にあふれている人も多いとアテクシ思うのよ。
でも死になさい。
さて、皆さんフランスって好きかしら?
アテクシは普通よ。
皆さんよく「プチ」って言うわよね。
「プチ整形」だとか言うじゃない死ねばいいのに。
「プチ小悪魔」とか意味わかんないわ。
まぁ知っての通り「プチ」って言うのはフランス語の"petit"で「小さい」って感じなのよね。
フランス人さんは猫とか犬とか呼ぶときに
"petit, petit, petit, petit"
って言うのよ。日本人が「チッチッチッチ」とか言うようなものね。
昔、フランスの宣教師さんが犬を"petit, petit"って呼んだのね。
それを見た日本の人が、それを名前と勘違いして自分の犬にも同じ名前をつけようとしたのよ。
しばらくたって、日本中に「ポチ」っていう名前の犬が大量に増えたそうよ。
キャバクラででもこの話すればいいじゃない!受けるかもしれないわよ!そのあと死になさい!
まぁ他にも諸説あるんだけどね。
でも日本人的よね。はじめにプチと聞いて自分のうちの犬もポチにしようと思った人を仮に源さんとしましょうか。
「ほ~らポチポチ」
「おぅ!源さんよ。なんでぃその妙竹林な名前はよう」
「てやんでぃ。こいつぁあすこのフランスさんの犬と同じ名前よ。ハイカラじゃねぇか」
「なるほど。聞いてみりゃあそんな気もするなぁべらぼうめ。まさかフランスさんの名前とはよう」
なんて言ってるうちに私もポチに私もポチにってなったんでしょ?
一時期キャバクラにもアユミちゃんが増えたそうね。
今宵はこれで。
ついに「恋空」を観てしまったのであります。
テレビで放送されておりました。
<公式HP>
http://koizora-movie.jp/index.html
<作品解説・紹介>
恋空 - goo 映画
高校1年生の美嘉は、暖かい家庭で育った優しい女の子。夏休みに入る前、図書室に忘れた携帯を取りに戻ると、それまでのメールも電話帳も全て消されていた。そこに見知らぬ男の子から電話がかかる。「大事な友達なら連絡が取れるから大丈夫」。その日から、その少年からの電話が毎日来るようになった。最初は不審がっていた美嘉だったが、次第にその少年に好意を持つようになった。学校でその少年に出会った美嘉は恋に落ち…。
1200万人が涙したケータイ小説最高のラブストーリーが映画に。思いがけない運命に巻き込まれる美嘉とヒロの優しくもせつない恋を、温かいタッチで描く。原作の小説は、著者である美嘉の体験を基に書かれた真実の物語。10代でこれほどヘビーな体験をするとは。また、誠実で高校生とは思えないほどしっかりした恋人や優しい家族が本当にいたと思うと、また涙が。主演は新垣結衣、三浦春馬、小出恵介他。美嘉役の新垣結衣は、あまりにせつないストーリーにリハーサル中、号泣してしまったとか。監督、脚本とも女性が手がけているだけあって、女の子の気持ちを描き方は秀逸。タイトルどおり、空や川など自然の風景が印象的に使われている。
<レビュー>
いやはや、噂に違わぬ異常映画であった。
ポッキーでおなじみになったガッキーと、三浦なにがしという若手イケメン俳優が非常に頑張って、
異常な設定の原作を濡れ場一切無しの爽やかな作品にねつ造しておる。
こんなシーンがあった。
これは昼下がりの川辺における、高校一年生のカップルの会話である。
会話は忠実に再現できぬが、ほぼ以下のような感じ。
金髪青年は三浦何某が演じている。
金髪青年「なあ、子供ができたら何ていう名前にしようか」
ガッキー「まだおなかの中の赤ちゃんが男の子か女の子かわかんないよ」
金髪青年「そうだ、男でも女でも生まれてきた赤ちゃんには『本』という字をつけよう」
ガッキー「どうして?」
金髪青年「だって図書館でできた子供だろう?」
ガッキー「それじゃあ子供が大きくなった時に説明に困るよ」
二人「あははははは」
非常に性にたいする倫理が乱れておりますな。
要するに図書館で二人はセックスをして、子供ができてしまったのである。
川辺に佇む高校一年生の爽やかなカップルが、実は上のような会話をしていることを知ってしまったら、
君はどうする。
これは、ジェットコースタームービーである。
次から次へと異常な話が展開してゆき、
考える暇をあたえない。
「ちょ、待てよ!」と言っている間にセックスしたり、レイプされたり、
おなかの中の赤ちゃんが死んだり、別れたり、恋人が病気になったり、
死んだり、立ち直ったり、ミスチルの歌が流れたり、終わったり、
つまりなんやかんやで、開いた口が塞がらないまま、
結局あとに残るのは「ガッキーがかわいかった」ってことである。
ところが、それだけかと思っていたら、
あとからこれは異常な映画であったということをしみじみ呑めばしみじみと思い起こされ、
これは早いところ文字として記録しておかねばという気になり、
こうしてここに記しているわけである。
前回とりあげた「椿三十郎」では、襖や障子の開け閉めが気になった云々と書いたが、
それと同じような役割をこの作品ではたしているのは、「携帯電話」である。
いや、椿三十郎のそれよりも、この作品における携帯電話の役割は大きい。
というか携帯電話がなければ話が成立しない。
ロッセリーニの「イタリア旅行」を観て、「男女と一台の車があれば映画が成り立つ」と思ったゴダールは「勝手にしやがれ」を撮り、そして「気狂いピエロ」を撮ったわけだが、
もしかしたら「男女と携帯電話があれば映画が成り立つ」時代が来ているのかもしれない。
エンディングテーマはミスチルの曲だった。
まさにこの異常な映画にふさわしい。
★★☆☆☆
駿河シカヲ
今回は「椿三十郎」である。
昨日洋画劇場でやってましたね。
録画して観ましたよ。
黒澤明の有名な作品を、才能が枯渇したといわれて久しい森田芳光監督がリメイク。
勇気ありますな。
<公式HP>
http://www.tsubaki-sanjuro.jp/index.html
<作品解説・詳細>
椿三十郎 - goo 映画
深夜の社殿の中で、井坂伊織ら9人の侍が上役の汚職を暴き出そうと密談していた。意気が上がる若侍たちの前に社殿の奥から1人の浪人が現れた。粗末な身なりに口も悪く、腹が減っていると見える。しかし、話を聞くうちに、井坂は浪人に類のない頭の切れを感じ、仲間に加わって欲しいと頼む。反対する侍もいたが、井坂は三十郎と名乗るその素浪人にえもいわれぬ魅力を感じていた…。
黒澤明監督の名作『椿三十郎』が森田芳光監督の手により、時代を超えて帰って来た。主演は、織田裕二、豊川悦司ら今の映画界をリードする若き侍たちだ。ある夜、密談する若侍たちの前に現れた男は、一見、無精ひげを生やした素浪人だが、類まれなユーモアで人を挽き付け、卓越した知識と剣の腕前で危難をなぎ倒していく。三船三十郎が威圧感でグイグイ引っ張って行くのに対し、織田三十郎は、協調性で若侍たちを惹き付ける。時代の違いこそあれ、理想のリーダーとしての三十郎を作り上げている。また、仲代達矢が演じた室戸半兵衛を豊川悦司が颯爽と好演している。脇を固める風間杜夫、小林稔侍、藤田まことらの演技合戦も見ものだ。
<レビュー>この際、本家と比較するのはやめておきたい。
おそらく本家を超えたと思った人は一人もいないだろうし、
制作側も、そうは思っていないだろう。
なにしろぼくにしたって本家を観たのは十年も前の話である。
この映画において、重要なファクターが一つあって、
それは襖や障子の開け閉めである。
映画の中でひっきりなしにピシャン!ピシャン!と開いては閉まり、開いては閉まるたびにストーリーが次に展開してゆく。
襖や障子がいわば「どこでもドア」になっていて、あれが(あくまで小さな次元の)異世界への通用口になっている。
ぼくは話そのものより、それが気になって、途中から、はたしてこの映画の中で何回襖の開け閉めがあるのかを数えたくなった。
押入れに格納された捕虜の押入れ侍の存在は、この映画における襖の重要性を最も簡単にあらわしている。
ときどき押入れの襖をあけて、「すぐ引っ込みますからね」とか何とか言いながら、主人公たちにアドバイスして、そして「失礼しやした」といった感じで礼をして、また自ら襖をしめて押入れに引っ込む。
というように、空間から空間への移動をせずに、
襖や障子の開け閉めによって一芝居ができる、というのは日本の時代劇の優位性を物語っているようにも感じた。
敵の住む隣宅と水路で結ばれていて、そこから椿が流れてくればそれが襲撃の合図という発想は見事である。
脚本の勝利。
★★★☆☆
今回はフランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録・特別完全版」です。
ある意味では壮大な失敗作と言えますが・・・。
<作品解説・詳細>
地獄の黙示録・特別完全板(2001) - goo 映画
ベトナム戦争下、任務を遂行するアメリカ兵の狂気を描いた戦争映画の特別完全版。1979年に製作され話題を呼んだオリジナル版に、53分の未公開映像を加えて再編集されたディレクターズ・カット版。監督は、「ドラキュラ」のフランシス・フォード・コッポラ。脚本は、「今、そこにある危機」のジョン・ミリアス。撮影は、「タンゴ」のヴィットリオ・ストラーロ。音楽は、コッポラの父親である「ニューヨーク・ストーリー」のカーマイン・コッポラ。主演は、「スコア」のマーロン・ブランド、「シックス・ディ」のロバート・デュバル、「スポーン」のマーティン・シーン、「ブレイブ」のフレデリック・フォレスト、「スピード」のデニス・ホッパーほか。
※結末が記載されているので、注意!!
狂うような暑さのサイゴンの夏。ブラインドの降りたホテルの一室で、ウィラード大尉(マーティン・シーン)は空ろな視線を天井に向けていた。505大隊、173空挺隊所属、特殊行動班員である彼に、それからまもなく、ナ・トランの情報指令本部への出頭命令が下った。本部では3人の男が彼を待ちうけており、そのうちの1人がウィラードに、今回の出頭目的を説明した。それは第5特殊部隊の作戦将校であるウォルター・E・カーツ(マーロン・ブランド)を殺せという命令だった。カーツはウェストポイント士官学校を主席で卒業し、空挺隊員として朝鮮戦争に参加、数々の叙勲歴を持つ軍部最高の人物であったが現地人部隊を組織するという目的でナン川上流の奥地に潜入してからは、彼の行動が軍では統制できない異常な方向へと進んでいった。情報によると彼はジャングルの奥地で原地人を支配し、軍とはまったく連絡を絶ち、自らの王国を築いている、というのだ。そのアメリカ軍の恥である錯乱者カーツを暗殺しなければならない、というのが軍の考えだった。この密命を受けた若い兵士ウィラードは、4人の部下、クリーン(ローレンス・フィッシュバーン)、ランス(サム・ボトムス)、シェフ(フレデリック・ホレスト)、チーフ(アルバート・ホール)を連れ、巡回艇PBRに乗り込んだ。まず、ウィラードは、危険区域通過の護衛を依頼すべく、空軍騎兵隊第一中隊にキルゴア中佐(ロバート・デュヴァル)を訪ねた。ナパーム弾の匂いの中で目覚めることに歓びさえ感じているキルゴアは、花形サーファーであるランスを見ると彼にサーフィンを強要した。ワーグナーの“ワルキューレの騎行"が鳴り響く中、キルゴアの号令で数千発のナパーム弾がベトコン村を襲った。キルゴアのもとを発った彼らは、カーツの王国へとPBRを進めた。河岸に上陸するたびにウィラードに手渡される現地部隊からの機密書には、カーツの詳細な履歴と全行動が記されており、読めば読む程ウィラードには、軍から聞いたのとは別の人物であるカーツが浮び上ってきていた。王国に近づいたころ、クリーンが死に、チーフも死んだ。そして、王国についた時、ウィラードはそこで、アメリカ人のカメラマン(デニス・ホッパー)に会い、彼から王国で、“神"と呼ばれているカーツの真の姿を聞かされる。カーツは狂人なのだろうか。それとも偉大な指導者なのだろうか。ウィラードにもわからなかった。そして遂にカーツとの対面の日がきた。テープレコーダーや本に囲まれたカーツの元にやってきたウィラードは、軍の命令に従い、“神"と呼ばれる人間カーツを殺すのだった。
<レビュー>
なんというアンバランスな大作なのだろう。
カーツ大佐の登場前と後で、まったく違う映画のようだ。
途中までこりゃ傑作だなあとおもっていたのだが、カーツ大佐が登場してからは、
とにかくダルい。
だが、そんなことはどうでも良いのだ。
マーロン・ブランドが大したことないとか、ドアーズがどうだとか、
サイケデリックな演出がどうだとか、どうでも良い。
この映画で語るべき点は、以下の二つである。
その一: 実はカーツよりイカレている異常者、キルゴア中佐
この男の魅力は尋常ではない。約三十分の出演で、全部かっさらっていったような気がする。
とにかく観て欲しい。
気になる方は、これを見てくれ。
http://www.hawk13.jp/baka/kilgore/kilgore.html
地獄の黙示録を観たものは、みんな魔人キルゴアのファンになるのである。
その二:プレイガールズ降臨
プレイガールズが慰問するシーン。
光に包まれてヘリから降りてくるのだが、
何故か異常に美しいのである。
無駄に美しいのである。
映画的な戦慄。
ということで、こんなクソ長い映画を観るのが嫌だ、という人は、
この二つのシーンだけでも見て欲しい。
せめて、キルゴア中佐のでてくる三十分だけでも。
言ったことを二秒で忘れるキルゴア。
サーフィンをするためにベトコンの村を襲うキルゴア。
絶対に被弾しないキルゴア。
ワルキューレの音楽にのせて村を襲う時のスペクタクルな映像。
そして、ナパーム弾で森を一瞬で焼き払う時(無音)の凄まじさ。
あの三十分だけで、多分ゴッドファーザーpart3一本分ぐらいの価値はあると思うよ。
★★★★☆
駿河シカヲである。
今回は世界の巨匠、溝口健二監督の「山椒大夫」について。
<予告編>
http://jp.youtube.com/watch?v=PAQMXboXgmI&feature=related
<作品解説・詳細>
山椒大夫(1954) - goo 映画
森鴎外の原作(大正五年一月“中央公論"発表)を「唐人お吉」の依田義賢、「鯉名の銀平(1954)」の八尋不二が再解釈を加えて脚色、「祇園囃子」の溝口健二が監督にあたった。撮影宮川一夫、音楽早坂文雄と溝口作品のレギュラー・スタッフの他、建築考証に日本古建築専攻の藤原義一、衣裳考証に「西鶴一代女」その他に協力した上野芳生が加わっている。「恋文(1953)」の田中絹代、香川京子、新派の若手花柳喜章、「にごりえ」の三津田健、「にっぽん製」の菅井一郎、「心臓破りの丘」の清水将夫、「男の血祭」の進藤英太郎などが出演。
※結末が書かれているので注意!!
平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏の妻玉木、その子厨子王と安寿の幼い兄妹、女中姥竹の四人である。その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を母や姥竹と別の舟に乗せて引離した。姥竹は身を投げて死に母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の日が流れた。大夫の息子太郎は父の所業を悲んで姿を消した。佐渡から売られて来た小萩の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残った。首尾よく兄を逃がした上で安寿は池に身を投げた。厨子王は中山国分寺にかくれ、寺僧の好意で追手の目をくらましたが、この寺僧こそは十年前姿を消した太郎であった。かくして都へ出た厨子王は関白師実の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分った。然し正氏はすでに配所で故人になっていた。師実は厨子王を丹後の国守に任じた。彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。
<レビュー>
まず、これを読んで欲しい。
ぼくの敬愛するビクトルエリセと山椒大夫の出会い。
http://www.acejapan.or.jp/film/list/mizoguchi/Erice.html
ある映画のことを書くとき、
その映画が素晴らしければ素晴らしいほど書きづらくなる。
この作品はまさにそれの最たるもので、「とにかく観てください」という他はない。
美しい。
特に、安寿の入水シーン、ラストシーン、この二つの美しいシーンを観た時は、
映画が好きで良かった、と思えて泣けてきた。
間違いなく今年のベスト1。
そして、人生のベスト3にはいる作品。
美しさ・・・★★★★★★★
田中絹代・・・★★★★★
香川京子・・・★★★★★★★
衝撃・・・★★★★★★★
駿河シカヲ
今回はフリッツ・ラングのハリウッドでの二作目「暗黒街の弾痕」を紹介。
<作品詳細・解説>
暗黒街の弾痕(1937) - goo 映画
ウォルター・ウェンジャー・プロのユナイテッド・アーチスツ傘下に於ける第一回作品で、「激怒(1936)」「丘の一本松」のシルヴィア・シドニーと「月は我が家」「丘の一本松」のヘンリー・フォンダとが主演する。脚本は「Gウーマン」「モダン騎士道」のジーン・タウンとグレアム・ベイカーが書き下ろし、「激怒(1936)」に次いでフリッツ・ラングが監督に当たった。助演の顔ぶれは「ギャングの家」のバートン・マクレーン、「鉄人対巨人」のジーン・ディクソン、「ロイドの牛乳屋」のウィリアム・ガーガン、「宝島(1934)」のチャールズ・チック・セールで、撮影は「結婚の贈物」「浪費者」のレオン・シャムロイが担当。
※結末まで書かれているので、ネタバレ注意!
恋人ジョーン(シルヴィア・シドニー)が涙を流して、官選弁護士スティーヴン・ウィットニー(バートン・マクレーン)が運動したお蔭で、前科三犯のエディは保釈出獄を許される。ドーラン神父(ウィリアム・ガーガン)に送られ自由の身となった彼は、ウィットニーの世話である運送会社のトラック運転手となる。ジョーンの姉ボニー(ジーン・ディクソン)は妹がエディと結婚することに反対し、彼女に恋をしているウィットニーと結婚するように勧めたが、ジョーンは即日エディと式を挙げる。前科者と蔑む世間の冷たい眼に苦しめられながらも、二人に幸せな日が続いていた。郊外に庭園つきの小住宅を月賦払いで買うことになり、そこへ引移った日、エディの雇主は遅刻を理由に、非情にも彼をクビにする。なんとか職を見つけようと狂人のように町をさまようエディだが、前科者の烙印がどこまでも前途を妨げた。その頃、毒ガスを用いて銀行を襲撃し、現金を積んだトラックを奪取した怪盗がいた。乗り捨てた自動車には、エディの頭文字の入った帽子が残されていた。直ちにエディ逮捕の網が張られる。エディはジョーンに帽子は盗まれたので身に覚えがないことを告白し、逃走しようとしたが、彼女は無実を証明するため自首を勧める。そこへ警官が現れて彼は捕縛され、裁判の結果死刑が宣告された。執行の当日、エディは囚人マグシイの助けを得て自ら負傷して病室に移された時、医師を人質に脱獄を計った。その時、銀行破りの真犯人がトラックもろとも河中に転落水死しているのが発見され、エディの釈放状が着いた。ドーラン神父は拳銃を構えたエディのもとへその知らせを持って近づくが、彼は官憲のトリックと思い、神父を射殺して逃走する。ウィットニーは、ジョーンに自分の車を提供して二人を逃がす。神父を殺した悔恨に悩みながら、二人の長い逃避行が続く。野に伏し山に寝て、その中にジョーンには赤ん坊が生まれた。秘かに子供をウィットニーとボニーに托した二人は、ようやく国境近くまでたどりつく。その時、警官隊に発見され、抱き合ったまま銃弾を浴びて崩れるように倒れるのだった。
<レビュー>
フリッツ・ラングのドイツ時代の作品を観たことがない。
本作はアメリカへ渡ったあとの作品であり、フィルムノワールの傑作と言われている。
主演はヘンリー・フォンダ。
前半はあまりアップで顔が映らず、どことなく地味で、むしろ彼のファムファタールであるシルヴィア・シドニーの快活な存在感にもっていかれている。
ところが、ヘンリー・フォンダが刑務所に入ったあたりの後半から、彼の表情が明らかに存在を主張し始め、顔のアップがバンバン決まってゆく。
面会のシーンで、ヘンリー・フォンダがシルヴィア・シドニーに「銃を持ってこい!」と言うメッセージを誰にも聞かれないように伝えるシーンの彼の表情は凄い。
このときに我々は男の狂気めいた何かを感じ取り、その後のデッドエンドをはやくも確信してしまうのである。
:
白黒映画における雨のシーンは、何故あんなにもビシビシと胸にくるのだろうか。
痛そうで、冷たそうで、やるせなく、時に美しい。
雨が感情を持っている。
カラー映画の雨のシーンにそれは無い。
いくらカラーで豪雨を降らせようが、それは白黒映画の小雨にも勝てないのである。
:
この作品は、あるべき姿のメロドラマであって、あるべきメロドラマの原型である。
男と女が愛し合い、運命に翻弄され、逃避行ののちに悲しい結末を迎える。
2000年代に生きる我々が、こうして70年前のメロドラマを観ている。
映画の歴史を横断しながら、思った。
映画というものは進化しえないもので、そのわりに普遍性を欠いている、だから死にそうでなかなか死なない文化なのだ、と。
★★★★★
駿河シカヲ
アテシ書くわよ。『思春の森』について。
ロリータ映画の最高峰とか言われているわね。
でもそんなのどうでもいいの。
っていうかアテシ少女なんかに興味ないのよね。
美少年がいいわ。それにこの映画には出てるのよ。超美少年が。
美少年過ぎてハンパないわ。オ○ン○ンだって見放題よ。涎が出ちゃうわ。
やばいですって?
どうでもいいわよそんなの。
キャバ嬢は滅べばいいのよ。
それにアテシこの映画、日本版とドイツの無修正版の両方見たけど、12歳と13歳のオ○○コが丸見えじゃないの。
だいたいヤってるじゃないのよ。
そんな小娘なんかじゃなくってアテシを触ってファブリツィオ!!
って言いたいわ。あぁなんて美少年。
ちょっと冒頭から飛ばしちゃったけど、だいたいアテシ、ブログの文字装飾って嫌いなのよね。
だいたいね、この映画単なる児童ポルノって言うよりも、思春期のもうどうしようもないグチャグチャしたところをかなりリアルに抉ってると思うのよね。
ちなみに画像ありよ。
今回はロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」を紹介。
<作品解説>

無防備都市(1945) - goo 映画
ローマ解放直後の極めて困難な状況で六カ月にわたって製作されたが公開されるや一躍映画史上の最大傑作と激賞され、イタリアン・ネオレアリズムの濫觴となった記念碑的作品。監督ロベルト・ロッセリーニの名は世界的となった。脚本にフェデリコ・フェリーニが参加、原案はセルジオ・アミディ、音楽はレンツォ・ロッセリーニ、撮影ウバルド・アラータ。
<レビュー>
「映画は映画の内側においてのみ特権的に語られるべき」とは、某有名映画評論家の言葉であるが、
教養の浅いぼくはそれを、「映画を語るなら、画面に映っていることだけを語れ」ということであると、曲解している(おそらく)。
それでぼくは映画を観ている最中はなるべく周辺情報を無視するように努めている。
しかし、この映画に関しては、あまりにも劇的な製作背景を無視せずに語ることはできない。
製作されたのは第二次世界大戦、ナチスによる支配からローマが開放された直後。
ロッセリーニは戦時中に映画資金と粗雑なフィルムの切れはしをかき集め、エキストラを含む出演者はほとんどが本物のレジスタンスを起用。
ということは、映画の内容と実際の社会で起きていることとほとんど時間のずれがなく、極めてドキュメンタリーな作品なのである。
リアリズム的でありながら、ストーリーは起承転結をふまえたドラマティックな構成であり、
実は娯楽性に富んでいる。
登場人物はどれも魅力的で感情的だから、それぞれがきっちりとキャラクターを備えているという点でも「ドラマ」と言ってよいだろう。
特にドン・ピエトロ神父などは非常に人間的なおかしみをもった親近感のあるキャラクターを持っており、我々は比較的近い視線で登場人物に接することができる。
といっても、もちろん主要人物は殺されるし(特にナチに連行される恋人を追いかける女は「あっけなく」殺される)、単なる悲劇では済ますことのできないような暗い結末が用意されているように、基本的には冷徹な視線で描かれている。
というわけで、思ったよりよく分かりやすく、走攻守バランスのとれた「普通に素晴らしい作品」という印象である。
真に実験的で前衛的なアプローチは、ヌーヴェルヴァーグまで待たなければならない、ということか。
ネオリアリズモとはもっととんでもなく刺激的なものだと思っていたのだが、そうでも無かった。
とは言いつつも、なんとなくヤバイという萌芽は感じ取ることはできた。
とかいってロッセリーニを観たのは初めてで、まだそんなことを言う資格はないので、観られるのはこれから全部観てゆこうと思っている。
★★★★★
by 駿河シカヲ
ドン・シーゲル「ダーティ・ハリー」を観たよ。
<作品解説>
ダーティハリー(1971) - goo 映画
冷酷非情な殺人狂を追う、敏腕刑事の渇いた執念を描く。製作総指揮はロバート・デイリー、製作・監督は「真昼の死闘」のドン・シーゲル、脚本はハリー・ジュリアン・フィンク、リタ・M・フィンク、ディーン・ライズナーの共同、撮影はブルース・サーティーズ、編集はカール・ピンジトアが各々担当。出演はクリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ、レニ・サントーニ、アンディ・ロビンソン、ジョン・ヴァーノンなど。翻訳は高瀬鎮夫。
<レビュー>
ダーティハリーがそもそも気になったのは、約三年前のこと。
東京で購入した友部正人の「にんじん」というアルバム(超名盤)のタイトル曲「にんじん」を聴いたとき、
出だしがこんな歌詞だった。
ダーティー・ハリーの唄うのは
石の背中の重たさだ
片目をつぶったまま年老いた
いつかの素敵な与太者のうた
その昔君にも
生きるだけで
せいいっぱいの時があったはず
あげるものも もらうものも
まるでないまま
自分の為だけに生きようとした
それから三年間もの間、ぼくにダーティハリーを観る機会は訪れなかった。
ビデオ屋でレンタルすれば良いわけだから、観る機会をつくろうとおもえばいつでもできたのだ。
じゃあ何故その機会を作らなかったのかと問われても、
そんなの答えようがない。
ただ、「ダーティハリー」をレンタルしなかった、という事実しかそこにはないのであって、
その理由はどこにもないのである。
物事に理由が何でもあると思うなよ、とぼくは言いたいわけである。
果たして、「ダーティハリーが歌うのは石の背中の重たさ」だったのか。
観た後に答えはでているだろうと思ったが、
こうして、観終えて二日経った今も、正解が分かっていない。
分かったことは、「ダーティハリー」という映画が、
とにかく苦々しくてやるせない味のする作品であるということだ。
ブラック珈琲を何杯も何杯も飲んで眠れなくなった次の日の情景だ。
★★★★★
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。