松尾スズキ監督「クワイエットルームにようこそ」を観ました。
<公式サイト>
http://www.quietroom-movie.com/
<作品解説・詳細>
クワイエットルームにようこそ - goo 映画
佐倉明日香は28歳のフリーライター。ようやく手にした署名コラムの執筆は行き詰まり、同棲相手ともすれ違いが続く微妙な状態。そんなある日、明日香は気がついたら、真っ白な部屋のベッドに拘束されていた。やってきたナースに「アルコールと睡眠薬の過剰摂取により、丸2日間昏睡状態だった」と説明されても、記憶があちこち欠如した明日香は戸惑うばかり。だが非日常的な空間で見知らぬ人々と出会ううち、明日香の中で何かが変わり始める…。
劇作家、俳優、コラムニスト、小説家などマルチな才能を持つ松尾スズキ、待望の長編監督第2弾。しかも今回は、芥川賞候補になった自作小説の映画化だけに、松尾ワールド全開だ。ちょっと風変わりな人々が繰り広げる、ゆる~い笑いの奥から現れるのは、意外にもリアルで等身大の“人間”たち。舞台が精神病院の閉鎖病棟だけに、ともすればへビーになりすぎる内容だが、役柄を自分のものにしてサラリと演じきった俳優たちと、監督の絶妙なお笑いセンスで、軽やかに仕上がっている。特に“ごく普通の28歳”(本当は違うけど…)を自然体で演じた内田有紀が、彼らの世界と私たちの日常は紙一重なんだ、と感じさせてくれる。それにしても蒼井優の“患者ぶり”は、真に迫りすぎていて怖いほど。必見!
<レビュー>
こういう雰囲気の映画が最近の邦画の主流なんですかね。
シリアスな内容を演劇風のコメディタッチで仕上げる感じ。
ぼくはこの流れをなんとしてもストップして欲しいのです。
そもそも松尾スズキは才能はあっても映画的なセンスが無いと思うのです。
単純に好みの問題もあるんだけど、それにしても駄目だと思います。
これはクドカンにも言えることです。
でも、恋の門よりは楽しめた。
演者が良かったからでしょう。
内田有紀の評価が高いようですが、それは内田有紀が思いのほか頑張っていたってだけの話で、
主役だったらあのぐらいは当たり前だと思うのです。
やっぱり凄いのは蒼井優ですね。
彼女はいつも凄いですね。
「リリィシュシュのすべて」ではじめて彼女をみてからずっといいなあと思っているのですが、それにしてもあの作品で同じくデビューした市原隼人くんとはすっかり正反対のベクトルにいってしまいましたね。
大竹しのぶはやっぱり何をやらせても役者ですね。
達者なのは分かるのですが、良くも悪くも、自然な人間ではなく、役者としての人間になってしまいます。
まあでも見ごたえがあって良いです。
そして何より良いのは平岩紙さんです。
ぼくは松尾スズキの映画は好きじゃないけど、松尾スズキの劇団の役者は実のところ大好きです。
荒川良々なんかはもう最高ですね。
山本浩司、山本剛史、そして大人計画の荒川良々が日本現代映画の三大怪優だと思っております。
で、大人計画の最終兵器が平岩紙さんです。
彼女は決して美人ではないのだけれど、なぜかかわいいのです。
なぜかぼくの心を掴んで離さないのです。
この不思議な魅力はなんなのでしょう。
恋をするとき、なんでこの人のことを好きなんだろうってふと思うときがあるのです。
でも結局わからない。
その気持ちと似ている。
ああ、平岩紙さん。
素晴らしい。
★★★☆☆
アルドリッチ監督の「特攻大作戦」です。
鉄板でした。
<作品詳細・解説>
特攻大作戦(1967) - goo 映画
E・M・ナサンソンのベストセラー小説を「怒りの葡萄」のナナリー・ジョンソンと、「ふるえて眠れ」のルーカス・ヘラーが共同で脚色、「飛べ!フェニックス」のロバート・アルドリッチが監督した戦争もの。撮影は「カーツーム」のエドワード・スケイフ、音楽は「テキサス」のフランク・デヴォールが担当。出演は「プロフェッショナル」のリー・マーヴィン、「オスカー(1966)」のアーネスト・ボーグナイン、「バルジ大作戦」のチャールズ・ブロンソン、「リオ・コンチョス」のジム・ブラウンほか。製作は「丘」のケネス・ハイマン。
1944年3月、大陸侵攻を間近に控えたある日、アメリカ軍のジョン・ライスマン少佐(リー・マーヴィン)は「特赦作戦」と呼ばれる奇妙な作戦命令を受けた。特赦作戦というのは、死刑あるいは長期の刑を宣告され服役中の元兵隊12人を選び出し、徹底的に鍛え、ヨーロッパ大陸侵攻直前にノルマンディーの敵前線背後に送りこんで攻撃するというものである。間もなくライスマンは選ばれた12人の極悪人と向かいあったのだが、どれも一筋縄ではいきそうもなく困難が予想された。6月に入り大陸侵攻の矢はまさに放たれようとしたいた。ライスマンのキャンプでは、彼やボウレン軍曹の容赦ない訓練が実を結び、12人の男たちは1団となって考えたり行動するようになっていた。軍首脳部の間には、この「特赦作戦」に対する強い不信と反対があったが、ワーデン将軍(アーネスト・ボーグナイン)は、反対意見をおさえ、その作戦を実行に移した。12人が攻撃する特定目標は、広大な林に囲まれた豪壮なフランス人の館であった。その館には週末になるとドイツ軍上級将校たちが、夫人や愛人をともなって集まったから、彼らを壊滅させれば、ノルマンディーの壁は容易に破れるのだった。闇にまぎれてドーバー海峡を越えたライスマン、ボウレン以下14人は、パラシュートで目ざす館へ降り立った。「特赦作戦」による奇襲は明らかに成功であった。これによってドイツ軍の指揮は乱れ、統一を失い、かくて連合軍はノルマンディーに上陸したのだった。そしてワーデン将軍は、「汚れた12人」と呼ばれる元軍人たちの功績を認め、彼らを以前の階級において任務に戻ることを進言したのだった。
<レビュー>
正直、疲れて書く気にならないのですが、
まあ一応なんとか記しておきます。
素晴らしい映画です。
キャラクターの際立ち具合、
戦争シーンの緊張感、
どれをとってもアルドリッチのエンターテイメントの手腕が凄いってことがわかります。
是非観てください。
映画ってこういうものです。
強いて言えば女性がほとんど出てこないことが不満かな。
リー・マービンといいアーネスト・ボーグナインといい、そしてチャールズ・ブロンソンといい、
男臭いことこの上ないです。
でも戦争ものに女性はいらないんですがね。
むしろ邪魔なんですがね。
ただ、そもそもアルドリッチの映画には女性がほとんどでてこないようです。
飛べ!フェニックスには一切でてきませんでした。
ちなみに彼の遺作が「カリフォルニア・ドールズ」という女子プロレスの映画。
女性が撮れない映画監督というレッテルが気に入らなかったようですね。
戦争映画って反戦を訴えるようなメッセージがうっとおしいですね。
でもこの映画にはほとんどそんな描写がでてこない。
終わり方も非常にあっさりしている。
最初から最後まで気持ちが良い。
女々しい部分が一切ありません。
★★★★★
最近何を観たのか覚えていません。
記憶を辿って少しづつ更新してゆきます。
今回はコッポラの「ゴッドファーザーpart.1」です。
<作品解説・詳細>
ゴッドファーザー(1972) - goo 映画
1282年、当時フランスに支配されていたシシリー島の住民が秘密組織をつくって反乱した時の合い言葉だったといわれる“MAFIA"は、19世紀に入り、“犯罪組織"としてイタリアの暗黒街に君臨するようになった。そしてイタリア系の移民として、この組織もアメリカに渡りアメリカ・マフィアが誕生した。その組織はシシリーやナポリ出身者またはその子弟で構成されており、組織の頂点にファミリー(家族)がありボスがいる。アメリカ・マフィアの年収は200億ドルといわれ、ギャンブル、合法企業の金融、運輸、スーパーなどを経営している。「ゴッドファーザー」はそうした巨大なマフィアの内幕を描いたマリオ・プーゾのベストセラーの映画化である。製作はアルバート・S・ラディ、監督は「雨のなかの女」のフランシス・フォード・コッポラ、脚本はコッポラと原作者のマリオ・プーヅォ、撮影はゴードン・ウィリス、音楽はニーノ・ロータが各々担当。出演はマーロン・ブランド、アル・パシーノ、ジェームズ・カーン、リチャード・カステラーノ、ロバート・デュヴァル、スターリング・ヘイドン、ジョン・マーレイ、アル・マルティーノ、モーガナ・キングなど。
コルレオーネ(マーロン・ブランド)の屋敷では、彼の娘コニー(タリア・シャイア)の結婚式が行なわれていた。一族の者を始め、友人やファミリーの部下たち数百名が集まった。ボスのドン・ビトー・コルレオーネは、書斎で友人たちの訴えを聞いている。彼は、相手が貧しく微力でも、助けを求めてくれば親身になってどんな困難な問題でも解決してやった。彼への報酬といえば、友情の証と“ドン"あるいは“ゴッドファーザー"という愛情のこもった尊称だけだった。そして彼の呼び出しにいつなりとも応じればよいのだ。これが彼らの世界であり、その掟だった。ドンのお気に入りの名付け子で、歌手として成功したが今は落ち目になっているジョニー・フォンテーン(アル・マルティーノ)もその1人だった。新作映画で彼にきわめつけの役があり、俳優として華々しくカムバックできるに違いないのだが、ハリウッドで絶大な権力を持つプロデューサー、ウォルツ(ジョン・マーレイ)からその主役をもらえずにいた。フォンテーンの窮地を知ったドンは静かにうなずいた。ある朝、目を覚ましたウォルツはあまりの光景に嘔吐した。60万ドルで買い入れた自慢の競走馬の首が、ベッドの上に転がっていたのだ。それからしばらくしてフォンテーンの許に、その新作の大役があたえられた。ある日、麻薬を商売にしている危険な男ソロッツォ(アル・レッティエーリ)が仕事を持ちかけてきた。政界や警察に顔のきくドンのコネに期待したのだが、彼は断った。だがソロッツォは、ドンさえ殺せば取引は成立すると思い、彼を狙った。早い冬の夕暮れ、ドンは街頭でソロッツォの部下に数発の銃弾を浴びせられたが一命はとりとめた。これはドン・ビトー・コルレオーネに対する挑戦だった。ソロッツォの後にはタッタリア・ファミリーがあり、ニューヨークの五大ファミリーが動いている。こうして1947年の戦いが始まった。末の息子マイケル(アル・パシーノ)は、一族の仕事には加わらず正業につくことを望んでいたが、父の狙撃が伝えられるや、家に駈けつけ、偶然にも2度目の襲撃からドンの命を救った。ドンの家では長男のソニー(ジェームズ・カーン)が部下を指揮し、ドンの復讐を誓ったが、一家の養子で顧問役のトム・ハーゲン(ロバート・デュヴァル)は、五大ファミリーとの全面戦争を避けようと工作していた。やがてソロッツォが一時的な停戦を申し入れてきた。だがソロッツォを殺さなければドンの命はあやうい。マイケルがその役目を買ってでた。ソロッツォ殺しは危険だが失敗は許されない。彼はこの大役を果たし、シシリーへ身を隠した。タッタリアとの闘いは熾烈をきわめ、ソニーは持ち前の衝動的な性格が災いして敵の罠に落ち、殺された。そんななかでドンの傷もいえ、和解が成立した。ドンにとっては大きな譲歩だが、マイケルを呼び戻し、一家を建て直すためだった。2年後、アメリカに帰ったマイケルは、ドンのあとを継ぎ、ボスの位置についた。ファミリーは縄張りを荒らされ、ゴッドファーザーの過去の栄光がかろうじて崩壊をくいとめているという状態だったが、マイケルの才能は少しずつ伸び始め、勢力を拡大しつつあった。ある日曜日の朝、孫と遊んでいたドンが急に倒れた。偉大なるゴッドファーザー、ドン・ビトー・コルレオーネは、多くの人々が悲しみにくれる中で安らかに死を迎えた。しかしマイケルの天才的な頭脳で練られた計画によってライバルのボスたちは次々に殺され、その勢力は一向に衰えなかった。彼の横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、部下たちの礼をうけていた。“ドン・マイケル・ゴッドファーザー"
<レビュー>
ところでハンマースホイの絵画は、部屋が描かれていることが多いのだが、大抵ドアが開いている。
手前のドアが開いていて、その奥のドアも開いていて、一番向こうの窓から光が射している構図の有名な絵がある。
開放的なのに、寂漠としていて極めて閉ざされた個人セカイ的な感覚は一体何なのか。
対してゴッドファーザーpart.1の有名なラストシーンは、開かれたドアがゆっくりとシャットアウトされるという分かりやすい断絶の演出。
コルレオーネ家の未来予想図が暗示されたあのシーンはドラマチックでゾクゾクする。
扉という装置は映画に限らず、視覚的演出効果として非常に有効な手段なのである。
part.1で私が最も好きなのは冒頭の約30分間の結婚式シーンである。
あの結婚式でビトをはじめとするコルレオーネ家の個々のキャラクターやコルレオーネ家の勢いやなどが全部説明されているのである。
が、その演出能力が凄いから好きなのではない。
よくわからないけれどあのシーンが好きなのだ。
part.1に限っては、まず結婚式のシーンをみたいがために私はゴッドファーザーのDVDを借りる。
次に観たいのはマイケルがはじめて人殺しをするシーン。
そして次に観たいのがゴッドファーザー襲撃のシーン。
それから馬の生首のシーン(このシーンはホラー映画のような演出手法がとられていて、毎回ドキドキする)。
つまり私のなかではpart.1の魅力はだいたい前半部に凝縮している。VHSで言えばマイケルの人殺しシーンまでですね。
もちろん、後半だってシチリア島でのエピソードも面白いし、ビトの死去もあるし、洗礼式の日にライバルマフィア達を粛清してしまうくだりもあって飽きない。
まあとにかく、この先死ぬまで何度も見続ける映画でしょう。
★★★★★
「陰日向に咲く」を観た。
つまらん。
<公式サイト>
http://www.kage-hinata.jp/index.html
<作品解説・詳細>
陰日向に咲く - goo 映画
ギャンブル好きが高じて借金まみれになったシンヤ。上司から援助を受けるも、パチンコで使い果たしてしまった。会社から見放され、取り立てに追われるシンヤは、オレオレ詐欺で金を稼ごうとする。しかし、電話に出た老婆がシンヤを自分の息子と思い込んで話し始め、二人の間に奇妙な交流が始まる。悲しく優しい老婆の声にシンヤはカネをせびるのも忘れ…。
劇団ひとり原作の小説が映画に。東京に暮すダメな人たちの人生に焦点を当てた群像劇。借金返済のためにオレオレ詐欺に手を染める青年、C級アイドルを追いかけるオタク少年、家族と世間を捨てた男、夫に逃げられ子供も亡くした孤独な老女…日陰でも懸命に生きる人々を温かい目線で描いている。主演は岡田准一、宮崎あおい、西田敏行、三浦友和ら。岡田准一のオレオレ詐欺にはかなり心が痛いかも。イケメンなのに出過ぎない“引き”の演技が光る。また、それぞれの登場人物たちがクライマックスで繋がるという練られたストーリー展開に唸らされた。監督は、堤幸彦監督に師事し『そのときは彼によろしく』で長編デビューした平川雄一朗。
<レビュー>
しかし、平川雄一朗って監督は最低だね。
なんだこのくそつまんねー映画は。
今年観た映画でいまのところ間違いなくぶっちぎり最低。
いろんな意味で最低。
後半一時間ずっと泣かせようと必死だもん。
馬鹿じゃねーの。
音楽うぜえし。
なんなの?
監督は本当の馬鹿なんだね。
俺の嫌いな堤幸彦の弟子なんだね。なるほどね。道理で最低なわけだ。
前半はまだ、いいです。
まあ、借金まみれのダメ人間のV6岡田君はもっと徹底的に陰惨であるべきなのだが、
そんなに期待してないんで別にいいです。
しかし後半一時間のかったるさときたら、なんなんでしょう。
テレビドラマなんかにありがちな糞みたいなクライマックスエンディングがずっと続くんです。
ぼくは「人にやさしく」というフジテレビのドラマがほんとうに大嫌いなのだが、
あれ以来のむかつきです。
しかし、世間の評価はそんなに悪くないようですな。
だからぼくはあえてこの評価を下そう。
星ひとつ。
★☆☆☆☆
駿河シカヲ
駿河シカヲです。
「茄子 スーツケースの渡り鳥」を鑑賞したす。
ていうかこれOVAなんですね。
goo映画になかったので、作品概要はwikipediaにて。
<公式HP>
http://www.vap.co.jp/nasu-wataridori/
<wikipediaよりあらすじ>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%84%E5%AD%90_%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B8%A1%E3%82%8A%E9%B3%A5
パオパオビール・チームは日本で開催されるレースに参加することになった。その頃、ペペの同僚のチョッチの練習仲間で、かつて世界選手権を制したこともある名選手、マルコ・ロンダニーニが急逝する。悲しみの中、ジャパンカップが行われる日本・宇都宮へとチームは向かう・・・。
<レビュー>
前作は素晴らしかったです。
でも、今回はちょっとトーンダウンしていますね。
テーマは分かりやすいです。
自転車レースの過酷さからの解放を描いています。
あるものは楽になるために自殺し、あるものは引退を考え、あるものは残り一周でリタイヤし、
あるものは苦しみながらも戦う。
前作ほど上出来ではなかったですが、良質なアニメです。
ただね、これはうまいことシリーズ化できますね。
プロ・ロードレーサーは世界中のあらゆるところを転戦するわけです。
だから、今回のジャパンカップで前回のブエルタ・ア・エスパーニャだけでなく、
ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどの有名なレースもあるし、
他にワールドツアーのレースもいっぱいあるわけです。
だから各地方の特色を生かしたかんじで、いわば寅さんみたいなかんじで量産できないものですかね。
ロードレースって単純に面白いです。
だからもうちょっといろいろ見てみたいんです。
他に特に言うことがないな。
水曜どうでしょうの藤村Pと嬉野Dがでています。
高坂希太郎監督の趣味らしいです。
水曜どうでしょう好きがこうじて、大泉をジブリ作品の声優に起用しているようなのです。
藤村Dはチーム監督のアメデオの声を担当。
重要な役です。
期待してしまうのは車内の藤村Dと自転車に乗る大泉洋の罵り合い。
カブの横断企画であったやつですね。
どうせなら大泉洋(ペペ)と藤村Pとのバカヤローコノヤローの楽しいやりとりがもうちょっとわざとらしくあっても良かったな。
★★★★☆
駿河シカヲ
駿河シカヲです。
ジブリ映画「茄子 アンダルシアの夏」を鑑賞。
<公式HP>
http://nasu-summer.com/
<作品解説・詳細>
茄子 アンダルシアの夏 - goo 映画
“ツール・ド・フランス”“ジロ・デ・イタリア”と並ぶ世界3大自転車レースの一つ“ブエルタ・ア・エスパーニャ”。スペインを一周するこのレースに挑むペペ・ベンネリ(声:大泉洋)は、解雇寸前の落ち目のレーサーだ。やがて故郷アンダルシアの村にさしかかる。かつて失望を味わったその土地は、過去に葬り去りたい場所だった。その日はちょうど兄アンヘル(声:筧利夫)と、昔ペペの恋人だったカルメン(声:小池栄子)の結婚式。ペペは疾風のように駈け抜ける。勝つことよりも、自分が存在する意味を見出すために…。
レースのスピード感や躍動感がリアルに伝わってくる。観客が目にするのは、文字通り疾走する夏だ。黒田硫黄のコミック「茄子」の中の一編をとりあげて、監督デビューを果たした高坂希太郎監督は、宮崎駿監督の一番弟子にして、『千と千尋の神隠し』の作画監督をはじめ、スタジオジブリ作品を支え続けてきた天才アニメーターである。
一つも無駄のない凝縮された47分間に、レースを追いながら、兄と弟の“自転車”と“カルメン”を巡る葛藤が見事に描かれている。これは男と男と女のオトナのドラマでもあるのだ。第56回カンヌ映画祭監督週間に、日本アニメ史上初めて正式出品されたのも納得。映画の後にはきっと、ワイン(ビールじゃ無粋!)と、アンダルシア名物“茄子漬け”を味わってみたくなる。
<レビュー>
ジブリは徹底して「動」のアニメをつくる。
というと、そうでない作品もあるので(高畑作品とか)やや語弊があるが、
まあだいたいそうである。
自転車レースを扱ったこの作品も当然「動」のアニメである。
はずなのだがしかし、全体的にどことなく「静」を感じさせる不思議な味わいがある。
そのへんがどことなく紅の豚に似ている気がしなくもない。
レースはスタートからゴールまでずっと全速力なわけではない。
チームスポーツなので、ラビット役が先導し、エースは集団の中に潜んでいる。
主役のぺぺ・ベネンヘリはチーム(パオパオ・ビール)のアシスト役で、作中のレースでも囮となる役目なのだ。
読み合いが延々続き、山が動くのは誰かが仕掛ける終盤なのだ。
スペインの広大な自然のなか、たんたんと、だが心理戦はめまぐるしく展開される。
途中チームパオパオビールにアクシデントが起き、エースが負傷し、
ぺぺに逃げ切りの指令がくだる。
ノーマークだったペペに優勝の可能性がわずかに見えてきたとき、ようやく他のチームもペペを吸収するべくペースをあげてゆく。
そして、怒涛のクライマックスがやってくるのだ。
更にぺぺと、彼の兄と、恋人との三角関係のドラマがうまいこと絡んでくる。
わずか50分足らずの短い作品だが、
これはなかなか侮れない作品だ。
緻密で、しかもダイナミズムがある。
良い意味で大人の映画。
独特の世界観も構築されている。
師匠の宮崎駿が大人も子供も相容れない映画を作ってしまっているのと好対照です。
そういえばエンディング曲を歌っていた清志郎さんの自転車が盗まれたことがあったね・・・。
★★★★★
駿河シカヲ
やや久しぶりです。
やや放置していました。
これから怒涛の更新をしてゆきたいと思います。
駿河シカヲです。
再びラピュタを観ました。
今回はgoo映画ではなくwikipediaのリンクを貼っておきます。
なかなか興味深い記述もあるので、チェックしてみるといいかもしれないよ。
<wikipedia>
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%BF
<レビュー>
なんと早急なアクションなのだ。
徹頭徹尾ドタバタしている。
飯を食うのもはやいし、
ほとんど寝ないし、
生き急いでいるとしか思えぬ。
ドーラは言う。
「40秒で支度しな」
「グズは嫌いだよ」
「泣きごとなんか聞きたくないね」
君は40秒で支度できるか。
私には無理だ。
ヒーローの資格はない。
ムスカでさえもこう言う。
「三分間だけ待ってやる」
まるでこれは私に言っているのか。
私は40秒で支度できない。
私はグズである。
私は泣きごとばかり言っている。
私は三分間待ってもらっても何も思いつかないし何もなしえない。
したがってドーラはもちろんのこと、
私はパズーにはなれない。
しかし、ドーラはこんなことも言っているのである。
「静かすぎる・・・こういうときは動かないほうがいい」
つまり、基本的には「疾きこと風の如く」なんだけど、場合によっては「動かざること山の如し」なんだね。
私は年中動かざること山の如しですよ。
結局私は天空の城ラピュタの夢を見ているんですな。
憧れているんです。
無茶苦茶にやってみたいけれども、面倒くさいしね。
こうやって一生終えるんだろうね。
凹む。
まあ、私は貝になりたいんですがね。
無理にラピュタに参加するとしたら、
ポム爺さんぐらいですかね。
半世紀後、私は半分ボケた浮浪者になっているのです。
ぼろぼろのギターをひきずって歩いているのです。
公園の草むらで青姦する若い男女をみてこう言うのです。
「小鬼じゃ。小鬼がおる。それに女の子の小鬼までおる」
なんだか怖くなってきたので、このぐらいにしておこう。
駿河シカヲ
成瀬巳喜男「浮雲」を観ました。
<作品解説・詳細>
浮雲(1955) - goo 映画
林芙美子の代表作を「山の音」の水木洋子が脚色し、「晩菊」の成瀬巳喜男が監督する。撮影は「ゴジラ(1954)」の玉井正夫、音楽は「不滅の熱球」の斎藤一郎が担当した。出演者は「この広い空のどこかに」の高峰秀子、「悪の愉しさ」の森雅之、「結婚期」の岡田茉莉子、「真実の愛情を求めて 何処へ」の中北千枝子のほか、山形勲、加東大介、木村貞子などである。
幸田ゆき子は昭和十八年農林省のタイピストとして仏印へ渡った。そこで農林省技師の富岡に会い、愛し合ったがやがて終戦となった。妻と別れて君を待っている、と約束した富岡の言葉を頼りに、おくれて引揚げたゆき子は富岡を訪ねたが、彼の態度は煮え切らなかった。途方にくれたゆき子は或る外国人の囲い者になったが、そこへ富岡が訪ねて来ると、ゆき子の心はまた富岡へ戻って行った。終戦後の混乱の中で、富岡の始めた仕事も巧くゆかなかった。外国人とは手を切り、二人は伊香保温泉へ出掛けた。「ボルネオ」という飲み屋の清吉の好意で泊めてもらったが、富岡はそこで清吉の女房おせいの若い野性的な魅力に惹かれた。ゆき子は直感でそれを悟り、帰京後二人の間は気まずいものになった。妊娠したゆき子は引越先を訪ねたが、彼はおせいと同棲していた。失望したゆき子は、以前肉体関係のあった伊庭杉夫に金を借りて入院し、妊娠を中絶した。嫉妬に狂った清吉が、富岡の家を探しあて、おせいを絞殺したのはゆき子の入院中であった。退院後ゆき子はまた伊庭の囲い者となったが、或日落ちぶれた姿で富岡が現れ、妻邦子が病死したと告げるのを聞くとまたこの男から離れられない自分を感じた。数週後、屋久島の新任地へ行く富岡にゆき子はついて行った。孤島の堀立小屋の官舎に着いた時、ゆき子は病気になっていた。沛然と雨の降る日、ゆき子が血を吐いて死んだのは、富岡が山に入っている留守の間であった。ゆき子は最後まで環境の犠牲となった弱い女であった。
<レビュー>
成瀬巳喜男はヤルセナキオと呼ばれていたようであるが、
むしろヤルセナキオにふさわしいのは森雅之である。
雨月物語を観たときにも思ったけれども、彼の演じるやるせなきダメ人間ぶりが非常に素晴らしい。
そして「浮雲」における彼などは、太宰治がそこに宿っているのである。
単純にキャラクターと風貌が似ているので、まだこの映画を観ていない方は是非それを確認して笑っていただきたい。
ただし、本気で死のうとしていないところは、太宰とは違うが。また、森は「僕は死ぬ勇気も無いんだよ」という台詞を言っている。
この映画はひどく疲れる。
台詞がきついのだ。
高峰秀子が女たらしでだらしなくて狡猾で小心者でモテて格好をつけたがる森雅之に対して、ことごとく的を得た小言を言い続けるのだが、それがきつい。
男女がお互いの醜い部分をビシビシと追及し、反目し合いながらも結局愛し合わずにはいられない二人の愛を描いている。
いわばあれが本当の恋愛至上主義の人達なのでしょう。
テーマ自体はありふれているが、ここまでの何気ないエグさはちょっと無い。
これは映画そのものが凄いというより、脚本の勝利なのかな。
いや、脚本の勝利などと言ってしまうと、じゃあ本読めば事足りるじゃないかという話なので、
これは極めて映画的な作品であるということはちゃんと言っておかねば。
ただ、溝口や小津のような強烈な個性が画面に映っていたかといえば、それはない。
その辺が作家主義的な立場からは評価されづらく、職業監督としての評価につながっているのでしょうかね。
ただ、溝口健二は三本しか観ていないので何とも分からないが、小津安二郎が作家主義的であったかと言えば、断じてそんなことは無いのだが。
真面目に観たら意外に凹むので、これから観ようという方には注意していただきたい。
基本的に真摯なコミュニケーションを「面倒くさい」と思うぼくなんかは、
ますます恋愛が嫌になってきました。
そしてなにより自分が本気で嫌になります。
ある意味最悪な映画です。
★★★★★
駿河シカヲ
葵姐さんにこの場を提供してもらいました。映画について書こうと思います。
というわけで今回は『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』について書きます。
原題は"En Kärlekshistoria"です。
日本初公開のときの邦題は『純愛日記』らしいです。1971年のことです。
この映画はすごいです。
何がすごいって、かわいすぎます。死ねます。
僕のロリコン人生の中でも五指に入ります。
余裕でジブリのヒロインと張り合えます。
アニカという少女とペールという少年の恋の話です。
アニカのかわいさが尋常じゃないです。
というか、この映画は
「ヨーロッパの片田舎に微妙な不細工として生まれ、13歳のときに同い年の美少女と恋に落ち、純粋な愛とぎこちない性に溺れたい」
というロリコンである僕の夢を半ば実現してるのです。
もうね、アニカがかわいすぎるのですよ。ペールは不細工なくせにね。
アニカの何がかわいいって、ペールのこと大好きなのがかわいいんですよ。
いや、それはムカつくんですよ。死ねって思うんですよ。
でもね、アニカのペールを見る目とかね、ペールとあったときの嬉しそうな顔とかね、やばいくらいかわいいのですよ。
ていうか何あの顔。あの目。あの微妙な仕草。
演技とはいえないくらい愛おしいではないですか。
死ねって思うよ。
というかですよ、というかですね、この映画、普通の恋愛映画としてみてもラブラブっぷりがすごいのですよ。
さらに、というか、この映画ね、ただただ二人のラブラブっぷりを見るだけの映画なのですよ。
これは語弊がありますがね。
わりと深いとこ色々考えさせられますよ。でもね、そんなのは関係ないんです。
そんなのはみんなが自分で見て感じ取ればいいんです。
アニカがかわいすぎるってことが僕にはやばいの。もうやばいの。
ペールが彼女の家に行って二人で過ごしてるときのね、アニカの表情とかやばいの。
ペール大好きなの。僕死ぬの。
まぁその夜やっちゃうんだけどね。
もうね、僕ね、こんな記憶をね、15歳のとき、13歳のアニカとこんな風に過ごした記憶っていうのをね、アニカにあんなふうに見つめられたっていう記憶をね、持てたらもういいんだ。
死んでもいいんだ。
でもね、ペールはその記憶を持ってるでしょう。もういいにして欲しいんだよ。
その不細工さを活かして人生路頭にでも迷ってほしいんだよ。
そのまま年取ってアニカと結婚して一生愛し合って暮らすならそれはまた逆にありです。
でもね、ペールみたいな微妙顔とアニカっていうのは実にリアリティがあるのだよ。
なんかね、ペールは不細工なくせにしばらくしたら「おっぱいがちっちゃい」っていう理由で捨てそうなんだよ。アニカは泣くんだよ。ペールが大好きだから。
死ねばいいのに。
体験したいってことじゃないんだよ。まぁしたいけどさ。
記憶が欲しいの。それでいいの。
自分の15歳のときの記憶に欲しいの。
とにかくね、これラブラブなのですよ。
まず冒頭でボーイミーツガールですよ。
で、もうね、お互い一目惚れ。
で、そしたらまぁとってつけたような葛藤やすれ違いがあるんだけど、結局お互いのベタ惚れっプリを示してるだけなのですよ。
ていうかすぐにくっつくし。物語の序盤ではもうくっつくの。もうね、すぐラブラブ。
で、その後ね、ちょっとした諍いがあるのね。とってつけたように。
第三者とイザコザがあってね。
で、まだクソガキだからさ、ペールはちょっとアニカを無視しちゃうの。
でもアニカはすごくペール大好きなの。
アニカを無視してバイクで走り出そうとするの。
アニカは泣きながら叫ぶの。でも行っちゃうの。アニカは立ち尽くすの。
すると戻ってくるの。抱きしめるの。あとはもうずっとラブラブ。
この諍いなんて映画の中ではほんの少しのホントにとってつけたようなものなんだけどね。
とにかく後はもうずっとラブラブなの。葛藤もすれ違いも疑惑も邪魔も何もないの。
色んなフラグとかあるのにね、全部無視。
なんの邪魔もなくずっとラブラブなの。
ペールがアニカの家に行って、両親は出かけてその日は帰ってこないの。
で、やっちゃうの。朝になってエヴァが来て見つかるんだけど、エヴァは話がわかるからそれで終わるの。両親にばれて引き離されてどうのこうのはないの。うまいこといっちゃうの。
好き好きすぎて、なんにも不安とかないの。不満もないの。
家庭環境とか両親のこととか、悲劇を混ぜようと思えばいくらでもできる環境なのに何もないの。
両親との軋轢をわかってくれないペールに徐々に不満が積もるとかないの。
ペール大好きなの。
この時代のヨーロピアンローティーン恋愛物的な悲劇的エンドもないの。
ラブラブのまま何もなく終わるの。
ハッピーエンドですらないの。
こう書くとくだらなく見えるだろうけど、そうでもないのですよ。
さらにアニカのかわいさだけでも見る価値はあるといえるのです。
今度ぜひ熟女専のシカヲ君と共に鑑賞会でも開いてこれを一緒に見たいと思います。
そしてレビューをここに書いてもらいたいです。
ジョン・スタージェス監督「大脱走」を観ました。
なんとも贅沢な作品です。
<作品解説・詳細>
大脱走(1963) - goo 映画
第二次大戦中の出来事。ドイツの誇る、第3捕虜収容所に収容された連合軍将校たちが、大脱走を敢行した一大史実である。原作は当時英空軍スピットファイヤー・パイロットで、実際にこの大仕事に参加していたポール・ブリックヒル。1950年に出版された著書“ザ・グレート・エスケープ"は超ベスト・セラーになった。製作者兼監督は「荒野の3軍曹」のジョン・スタージェス。撮影は「ウエスト・サイド物語」でアカデミー賞を獲得したダニエル・L・ファップ。脚色は「アスファルト・ジャングル」の著書で知られるW・R・バーネットとジェームズ・クラベルが共同で担当している。音楽は「終身犯」のエルマー・バーンスタイン。出演者は「戦う翼」のスティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンスン、ジェームズ・コバーンをはじめ、「噂の二人」のジェームズ・ガーナー、英国からリチャード・アッテンボロー「ロベレ将軍」のハンネス・メッセマーなど。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
新たに作られたドイツの北部第3捕虜収容所に、札つきの脱走常習者・連合軍空軍将校たちが運び込まれた。しかし早くも“心臓男"と異名をとったヒルツ(スティーブ・マックィーン)は鉄条網を調べ始めるし、ヘンドレー(ジェームズ・ガーナー)はベンチをトラックから盗み出す始末だ。まもなく、ビッグXと呼ばれる空軍中隊長シリル(リチャード・アッテンボー)が入ると、大規模な脱走計画が立てられた。まず、森へ抜ける数百フィートのトンネルが同時に掘り始められた。それはトム・ディックハリーと名付けられた。全員250名が逃げ出すという企みだ。アメリカ独立記念日トムが発覚してつぶされた。が、ほかの2本は掘り続けられた。しかし、あいにくなことに掘り出し口が看取小屋の近くだったため、脱走計画は水泡に帰し、逃げのびたのはクニー(チャールズ・ブロンソン)と、彼の相手ウィリイだけであった。激怒した収容所ルーゲル大佐が、脱走者50名を射殺したと威嚇した。やがて、“勇ましい脱走者"の生存者を乗せたトラックが到着したとき、ゲシュタポの車が収容所の入口に止まり、ルーゲルは重大過失責任で逮捕された。かくてドイツ軍撹乱という彼らの大使命は果たされたが、幾多の尊い生命が失われていった。再び収容所に静けさが訪れたが、ヒルツやヘンドレイは相変わらず逃亡計画を練りあちらこちらでその調査が始まっていた・・・。
<レビュー>
スティーブ・マックイーンの過剰なスター性はいったい何なのだろうか。
この作品におけるマックイーンは主役級ではあるけれども完全な主役ではない。
しかし彼は完全な主役であろうとする。
何様のつもりだと言ってやりたくなるほどの傲慢さがある。
大脱走を果たしたあと、バイクで逃げる長いくだりが彼のために用意されている。
この話は実は意外にシビアで、結局彼は捕まってしまうのだが、バイクをぶっ飛ばすシーンは「自由への疾走」と言うのにふさわしいような爽快さがある。
拘束から解放された広大な大地が、収容所という閉じた空間との効果的な対比になっている。
あの大地をバイクで格好良く走らせる人物は、キャスト陣の中でマックイーンしかいないだろう。
スターにしか許されないのである。
やはりチャールズ・ブロンソンには許されないのだ。
この映画はアルドリッチと同じく、男が観てわくわくする映画である。
少年は作戦を立てて集団で何かを成し遂げるのが好きなのだ。
諜報係、調達係、参謀、ボス、一匹狼、伝令係、等々の上に成り立つ組織が好きなのだ。
いわば集団ロールプレイングゲームが好きだったはずなのだ。
だからこういった映画を観たときには心踊るものがある。
オーシャンズ11しかり、ルパン三世しかり、プライベートライアンしかり、七人のおたくしかり、ロールプレイングの特性を持つ作品はすでに前提で面白いのである。
ここから全然関係ない話。
というか揚げ足とりの悪口なので聞き流してください。
この映画は「大人の追いかけっこ」という感じがする。
ただし正確には、遊びでは決してないから「追いかけっこ」と言うのは間違いである。
で、思い出したんだけど、「リアル鬼ごっこ」という有名な作品がありますね。
あれは作者に言わせればリアルな鬼ごっこなのかも知れないけど、鬼ごっこ自体が既にリアルに存在しているものだから、リアル鬼ごっこも「ただの鬼ごっこ」でいいんじゃないでしょうか。
嫌ならせめて「過剰な鬼ごっこ」にして欲しい。
ごっつええ感じに「りあるポンキッキ」という面白いコントがありまして、あれの意図は分かるんです。
ポンキッキのキャラクターが着ぐるみ(つまりフィクション)ではなく本当に生き物として存在したら・・・ということでやっているのです。着ぐるみをフィクションとすることによって、フィクションではなくリアルだったらどうなのか、という発想のもとに名付けられたネーミングです。
だから「りあるポンキッキ」で良いのです。
しかし、鬼ごっこは鬼ごっことして紛れもなくリアルに存在しているのです。
ただし、以下のような反論が容易に想像できます。
鬼ごっこが「遊び(つまりフィクション)」ではなく、捕まったら本当に殺される、だからリアル鬼ごっこなのだ、と。
でも、鬼「ごっこ」と言っている時点でリアル鬼ごっこも遊びでしかないのですよ。
「鬼ごっこ」も「リアル鬼ごっこ」も遊びである、という部分で矛盾しているのです。
ポンキッキという言葉からでは着ぐるみか生き物かという判断が出来ないからリアルなのかそうじゃないのかという話を作っても良いけれど、鬼ごっこは「ごっこ」という縛りでもって鬼ごっこが「遊び」であるという限定的な定義がなされているのであるから、「リアル鬼ごっこ」というタイトルは間違っているのです。
まあ全部読んでないから分からないけど、リアル鬼ごっこも「遊び」という感覚で作中において実施されたものであるなら尚更、捕まったら殺される鬼ごっこという遊びを、リアル鬼ごっことは断じて言ってはならぬのです。
ごめんなさい。
作品そのものが悪いと言っているわけじゃないです。
あくまでタイトルが悪いという話です。
読んでないけど。
★★★★★
駿河シカヲ
宮崎駿監督「紅の豚」を観ました。
<作品解説・詳細>
紅の豚(1992) - goo 映画
20年代のイタリアを舞台に、豚に変身してしまった飛行機乗りの夢とロマンを描いたアニメ。原作・脚本・監督は「魔女の宅急便」の宮崎駿。作画監督は賀川愛と河口俊夫が共同でそれぞれ担当。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
第一次大戦時、イタリア空軍のエース・パイロットだったポルコ・ロッソ。彼はある事がもとで自分に魔法をかけ、豚に姿を変えた。今ではアドリア海にはびこる空賊を捕らえる賞金稼ぎ。その彼を煙たがる空賊達はポルコを倒すため、アメリカのパイロット、ドナルド・カーチスを雇い入れた。腕はやたら立つくせに、どこか陽気で女に惚れっぽい気のいい奴だ。彼は、エンジンの不調に手を焼くポルコを待ち伏せて、まんまと撃墜に成功する。ポルコのかつての飛行機仲間であり、今はホテル・アドリアーノのマダムであるジーナに一目惚れしていたカーチスは、ポルコがいない間に彼女に言い寄るが、私には待っている人がいると、あっさりかわされてしまう。ポルコは壊れた愛機を馴染みの修理工場ピッコロ社へと運び込む。そこで出会うピッコロの孫娘・フィオ。艇の設計改造をやるという彼女に、ポルコは一旦は憤慨するものの、熱意に満ちた彼女に負けて全てを任せてしまう。快活で屈託のない彼女の姿がポルコには新鮮に映った。そして完成したポルコ艇は想像通り完璧だった。やがてフィオはポルコ艇に乗り込み、彼と行動をともにする。蘇った艇を操り、ようやくアジトに戻ったポルコたちを待ち受けていたのは、例の空賊どもだった。地上でポルコを襲う彼らの卑劣さにフィオは激怒し、彼らにポルコ対カーチスの再試合を迫る。そこへ颯爽と登場するカーチス。高飛車に出ようと格好をつけるカーチスだったが、フィオを見るなり再び一目惚れ。彼女を賭けるという条件で話に乗ってしまう。決闘の前夜、ポルコはフィオにせがまれるままに、第一次大戦での体験を語った。そして遂にやって来た決闘当日、大勢の空賊やフィオに見守られながら大空中戦を繰り広げるポルコとカーチス。果ては2人の殴り合いとなりポルコはカーチスを倒すのだった。
<レビュー>
だから今回は本作の脚本や演出や印象的なシーンや登場人物のキャラクターなどには一切触れず、本作の上映時間に焦点を絞ることにする。
紅の豚の上映時間は約90分である。
90分が今のぼくにとっては最もベストな時間だ。
120分だと長い。
ちなみに押井守は90分という長さこそが映画上映時間の黄金律であるという信条を持っていて、90分におさめるためにシーンをバッサバッサと容赦なくカットしてゆくらしい。
ゴダールに言わせると、映画は「1秒間に24の死」なのである。
現在はVHF、DVD、その他録画機能が家庭に普及しているから、気になったシーンを巻き戻し再生できるけれども、映画館でしか映画を観ることができなかった昔は、シーンひとつひとつを克明に記憶しようとする想いが強かったと考えられないこともない。
動体視力もためされるわけだ。
映画を観るということは、「1秒間に24の死」があるという映画の持つ恐怖に耐えることであり、その恐怖に耐えたものだけが映画を語る資格がある、というのは蓮實重彦の弁。
これは非常に鋭い指摘である。
蓮實氏などは評論家だから「1分間に24の死」という映画の定義に尚更敏感に反応したのだろう。
昔の映画評論家は現在のように何度も見直しながら映画評論の原稿を書くことができなかっただろうから。
一瞬一瞬を平気で見逃す人間は映画を観たことにはならない。
これは恐るべき忠告である。
画面に何が映っているのか、そして何が画面から消え去ったのか、ただそれを注視するだけで本来精一杯なのではないか。
これを実践していると、今のぼくでは90分が限界なのです。
要は集中力の問題なのです。
ヘトヘトで仕事から帰ってきて、夕飯を食べてシャワーを浴びたら映画を観るのがだいたいの日課なのだが、よっぽど面白い映画でないと一時間を過ぎたあたりで眠くなってくるのです。
最近は二日間に分けて観たりします。
今日だってヴェンダ-スのランドオブプレンティという素晴らしい作品を一時間で中座しているのです。
残りは明日観るのです。
だから、ぶっちゃけ60分でいいんです。
でも60分にまとめるのは難しい。
だから90分で手を打とう、ということなのですね。
ということでした。
「紅の豚」は言うまでもなく、90分の名作です。
★★★★★
ロバート・アルドリッチ監督「飛べ!フェニックス」を鑑賞。
<作品解説・詳細>
飛べ!フェニックス(1966) - goo 映画
エルストン・トレバーの小説『フェニックス号飛行』を、「ふるえて眠れ」のスタッフ、ルーカス・ヘラーが脚色、ロバート・アルドリッチが製作・監督したサスペンス・ドラマ。撮影も「ふるえて眠れ」のジョセフ・バイロック、音楽はフランク・デヴォールが担当した。出演は「シェナンドー河」のジェームズ・スチュアート、「バタシの鬼軍曹」のリチャード・アッテンボロー、「ハタリ!」のハーディー・クリューガー、「ロード・ジム」のクリスチャン・マルカン、他にピーター・フィンチ、アーネスト・ボーグナイン、ダン・デュリエなど。
※ストーリーの結末が記載されているので注意!
アラビア石油空輸会社所属の輸送兼旅客機が、サハラ砂漠にある採油地から基地へ帰る途中、砂あらしに遭遇し、砂漠の真只中に不時着した。この事故で、2名の死者と1名の負傷者がでた。操縦士のフランク(ジェームズ・スチュアート)は、事故の一切の責任をとる決心をして、航空士ルー(リチャード・アッテンボロ--)と共に、なんとか、乗客を無事救出すべく策を練った。この乗客の中には、イギリス陸軍大尉ハリスと部下のワトソン軍曹がいたが、ワトソンは上官であるハリスに根深い反感を持っていた。数日後、救援隊が来ないのにしびれを切らしたハリスは乗客の1人で、小猿をもっている男カルロスや、採油夫長トラッカーとともに、オアシスを探しにいった。だが、トラッカーは、砂嵐にまきこまれたのか、数日後死体となって発見された。一方、年若い飛行機デザイナーのハインリッヒ(ハーディー・クリューガー)は、人手と器材さえあれば、こわれた飛行機から、あたらしい小型の単発機を組立てることができると、フランクに説いた。だが、ベテランのパイロットであるフランクには、この年若いデザイナーのことを信用することはできなかった。しかし、医師のルノー(クリスチャン・マルカン)はハインリッヒ計画に賛成した。そうしたある日、一行は、近くにアラビア人の1隊がキャンプをはっているのを発見し、ハリスとルノーが偵察に出発した。だが、期待も空しく、夜が明けると、アラビア人の1隊は姿を消し、キャンプのあとから、ハリスとルノーの死体が発見された。最早、ハインリッヒが作る飛行機に一るの望みを託す以外になくなった。全員が一丸となっての協力が実り、やがてハインリッヒが設計した「フェニックス号」は、生存者7名を乗せて、空に舞い上がった・・・。
<レビュー>
名作と呼ばれているだけあって脚本は非常に良くできている。
おまけにアルドリッチ監督の個々のキャラクターの際立たせる手腕は本当に素晴らしい。
こういった、三谷幸喜がいうところの「作戦もの」としては最高の出来に近いのではないだろうか。
同じ脱出劇では三谷氏のフェイバリットである、かの名作「大脱走」よりもよく出来ている。
まあ、あの「大脱走マーチ」は全てを無にするほどの威力があるのだが、そのハンデがあってもこちらのほうが面白い。
腕白な少年時代を経てきた男子にとってはたまらない集団脱出劇である。
血がたぎるのである。
ただし、極度の弱虫であった私などは(今でも変わらないが)、実際にあのような過酷な状況におかれた場合真っ先に絶望するであろう、というシミュレーションが頭の片隅にはあったわけでもある。
まあそんな個人的な話はどうでもよろしい。
実のところこの作品においてもっとも重要なのは、脱出そのものよりも壊れた飛行機がどのようにアレンジされて完成してゆくのかという具体的な過程だと私は思う。
がしかし、その見せ方にやや難があるような気がする。
どこがどう壊れてそれをどう修理したのか、というのがいまいちわかりづらかった。
骨身を削って修理している描写はあるけれども、一生懸命さだけが伝わってくるだけで、どこをどうしてどうなったのかがよく分からない。
それがちゃんと画として説明できれば、個人的な基準では文句無しの傑作だった。
とはいえ、これは傑作であることには間違いない。
そして、そのひと月後に観た同監督の「特攻大作戦」が、本作を更に上回る素晴らしい傑作だったのである。
★★★★★
駿河シカヲ
宮崎駿監督「ルパン三世 カリオストロの城」を観たよ。
<作品解説・詳細>
ルパン三世 カリオストロの城(1979) - goo 映画
ヨーロッパの小国カリオストロ公国の秘密を暴くルパン三世の活躍を描く劇場用シリーズ第二作目。脚本は宮崎駿と山崎晴哉の共同執筆、監督は宮崎駿、作画監督は大塚康生が担当。
人口三千五百、世界一ちっぽけなカリオストロ公国の田舎道をボロ車でドライブしていたルパンと次元はクラリスという美女を助けた。彼女はカリオストロ公国・大公家に残された最後の娘で、カリオストロ伯爵は彼女を強制的に妻に迎え、公国の権力をひとり占めにしようと狙っていた。クラリスはルパンに助けられたが、再度捕えられてしまう。召使いとして城内に忍び込んでいた不二子の手引きで、彼女の閉じこめられている塔に潜入、彼女を連れて逃げ出そうとすると、床が開いて地下室へ落下。不二子が裏切ったのだ。排水口から脱走するが、辿りついたところは、地下の造幣工場。金を必要としている世界の権力者のためのニセ札の製造だ。これが、四百年もの間、カリオストロ公国が大国から侵略も受けずにこられた秘密。ルパンは放火魔に変身、城は火の海となった。しかし、いったんは奪還したクラリスがまたして、捕まってしまい、カリオストロと彼女の結婚式が行なわれようとしていた。伯爵の企みは成功するかに見えたが、大司教になりすましたルパンが二人の前に立ちはだかり・・・。
<レビュー>
ルパン三世のシリーズの中でもカリオストロは最高傑作として名高い(ただし一部のルパンフリークスには不評のようだ)。
にも関わらず今回が20代後半にして初見なのでした。
それどころかぼくはルパンシリーズをほとんどまともに観たことがない。
よって、シリーズの他の作品と比較は出来ないが、とにかく言えることは、極めて質の高いアニメであったということである。
はじまってすぐの、ルパンと次元がカリオストロの王女クラリスを救うカーチェイスシーンの躍動感は、宮崎駿の真骨頂である。
このシーンを見て、やっぱりこれは面白いに違いないと期待するわけです。
で、期待通り徹頭徹尾アクションシーンの躍動感に満ちていて素晴らしいわけです。
カリオストロ城の作りも見事。
まるでそこに自分もクラリスを助け出すためにいざ侵入せしめようとしているかのように錯覚してしまう全体の空間設計。
男なら、男として生まれたのなら、この難攻不落の城に勇気をもって潜入しなければならぬ。
そう、何故ならそこにはシータ、もとい、クラリスが待っているからなのだ。
それはまるで私の人生最高の映画「天空の城ラピュタ」のようではないか。
このような単純に楽しめるボーイミーツガールな冒険活劇だけを作っていてくれたら、100%ポジティブに宮崎駿を肯定できるのだが。
とりあえず、宮崎映画にありがちな説教くささも皆無なので、ぼくはこの作品を擁護したい。
石川五右ヱ衛門がずるいと思う。
「またつまらぬものを斬ってしまった・・・」の一言で心を鷲掴みにしてしまうのだもの。
少なくともこの作品においては彼はただのルパン一味の道具でしかないんですよ。
云わば困った時に重宝する便利なカッターの役目ですよ。
それ以外たいして使われないわけですよ。
ぼくは趣味でギターを弾くんですがね、弦を張るときに、余分な部分をカットするペンチが必要になるわけです。そのペンチが言ってみれば五右エ門なんですね。ペンチはそれ以外使わないわけです。
ルパンがエレキギターで次元がアンプで不二子がエフェクターだとすれば、五右エ門はペンチですよ。
それなのに、彼は非常に格好よろしい。
だからずるい。
他に個人的にあげると、以前マダムが私に指摘していたシーンが良かった。
次元が車内の灰皿から溢れたシケモクを吸うのです。
結構何気無いんだけど、次元大介というキャラクターの肉付けに貢献している素敵なワンシーンだと思います。
★★★★★
駿河シカヲ
「偶然にも最悪な少年」を観ました。
監督はグ・スーヨン。知らない。
<作品解説・詳細>
偶然にも最悪な少年 - goo 映画
17才のヒデノリ(市原隼人)は、幼い頃からいじめられっ子の韓国人。この日、万引きの現場を押さえられていた真っ最中、タローに出会い、仲良くなる。18歳の由美は、厭世的で強迫性障害持ち。ヒデノリとタローとは、ボウリング場で出会うが、印象は最悪。ある日、ヒデノリの姉・ナナコが手首を切って自殺した。「姉ちゃんに韓国を見せてやりたい」。早速ヒデノリは、偶然再会した由美と、運転手役のタローを巻き込み、ナナコの死体を連れて博多へと向かうことにするが…。
どっから見ても頼りなくて、どう考えても非常識な、行き当たりばったりの長距離ドライブ。乗車しているのは、地に足の着かない3人の若者と魂の抜けた一体の死体。とんでもなく奇抜で突飛なストーリーが、優しく、テンポよく進んでいく映画、『偶然にも最悪な少年』。監督は、CM界で強烈な才能を発揮してきたグ・スーヨン。脚本は、コピーライターとして世間を惹きつけてきた、スーヨン監督の実弟、具光然。2人のコンビネーションが見事に調和して、繊細ながらもパンチの効いたコミカルなドラマが出来上がった。
主演には、キレたキャラクターを思い切り演じた市原隼人、実力と存在感を増してきた池内博之、そして、音楽界で不思議なカリスマを放つ中島美嘉ら、注目の若手。彼らの周りに、ひょこひょこ顔を出す俳優陣は、風吹ジュン、袴田吉彦、佐藤江梨子、津川雅彦、前田愛、永瀬正敏、ともさかりえ、高橋克典、大滝秀治…と、その豪華さと奇妙な味わいに驚かされる。ぼんやりした頭を思い切り振り回されるような、疾走感満点の作品だ。
<レビュー>
今回で二回目の鑑賞。
だからといって特別好きなわけではない。
妹がカナダで買ってきた中国の海賊盤がたまたま家にあったので、久しぶりに観てみただけのこと
。
劇中で中島美嘉が一度だけ口ずさんでいた歌が、何だったのか。
聴いたことがあるのは間違いないのだが、いったい誰の曲なのか。
それが本作を見ていて終始気になっていた大きな謎である。
といってもそれは映画自体にはまったく関係のないことで、ごくつまらない個人的なことである。
ただぼくにとっては非常に問題で、思い出せなくてイライラして仕方が無かった。
中島さんが何気なく、本当に何気なく、ほんの一節口ずさむのです。
何気ないだけに思い出せなくて腹が立つのです。
しかも結構耳馴染みがあるし、好きだった気がするのです。
市原隼人は随分下手くそな俳優だと長らく思っているのだが、本作の役柄にはやや光明がある。
この作品の主な登場人物たちは、狂気に触れる寸前どころではなく、共感を拒絶するレッドゾーンに完全に踏み込んでしまっていて、主演である市原君の役柄はその代表格であり、このままこの危なっかしい路線でゆけば、まあオダギリジョーは演技が饒舌すぎるので無理として、ひと頃の窪塚洋介的なポジションでゆけると思うのだが、ぼくの知る限りでは「僕と駐在さんの700日戦争」でほんの少し(あくまでほんの少し)危ない感じがかいまみえたぐらいで、あとはウォーターボーイズだのルーキーズといった糞ドラマの中で面白くもなんともない正義の範疇にとどまったしょうもない演技をしているようです。
もっと彼は奔放にやれば良いのに、プライベートでは男の友情を大事にする非常に熱い男のようで、何とルーキーズを人生で最高の作品などと言っておるわけです。
そんな素晴らしいことを言っておるのです。
ある意味重症なわけです。
彼は、ただそこに立っているだけで良かった、岩井俊二監督「リリィシュシュのすべて」のような、そんな作品に出るべきなのかもしれない。
あの作品に一緒に出ていた蒼井優と比べるのは酷だが、それでも彼はただ立っているだけで主役になれる存在なのだ。
「リリィシュシュのすべて」の時代が終わり、数年後、同じく岩井俊二の関わった「虹の女神」で主演したときは多少喋りが多くなり、やっぱり彼は喋りだした途端に駄目になるなあと思ったものだ。
そんなこんなですよ。
観終えた直後、中島美嘉が口ずさんでいた曲を唐突に思い出しました。
エレカシの曲でした。
ヒトコイシクテ、アイヲモトメテです。
良い曲です。
★★★★
駿河シカヲ
駿河シカヲです。
金融腐蝕列島「再生」を観ました。監督は佐藤純彌です。
<紹介サイト・あらすじ>
http://www.bs-tbs.co.jp/app/program_details/index/DRT0410400
あらすじ
協立銀行プロジェクト推進部副部長、竹中治夫(村上弘明)45歳。竹中は、ウミを出し切って地銀連合として再生を目指そうとする斎藤頭取(細川俊之)からの特命を受ける。その特命とは、鈴木会長(渡辺文雄)が過去に特別枠で融資をしていたノンバンク「産立ファイナンス」の、500億に及ぶ不良債権の処理だった。 一方、実権を握る鈴木会長は大手都銀との合併を画策していた。この合併で鈴木会長は自らの不正融資をももみ消そうと目論んでいた。竹中らによる産立ファイナンス」の内部調査で浮かび上がる鈴木会長と「闇社会」との癒着の構図…。そんな竹中の動きに「待った」をかけたのが、竹中と同期で、企画部の杉本勝彦(益岡徹)。杉本はエリートコースを突き進んで来た銀行マン。杉本は、竹中の動きを牽制するようにと鈴木会長派の佐藤常務(伊武雅刀)に命じられていた。杉本の制止を無視して産立ファイナンスの調査を続ける竹中に対して、容赦なく「闇」からの反撃が開始される。街宣車、竹中宅への銃撃、産立ファイナンス社長・松村の殺害と事態はエスカレート。追い詰められた斎藤頭取はやむなく総会屋の斡旋でヤクザとの手打ちを決意する。「鈴木会長を倒さなければ協立銀行に未来はない」と悟った竹中は自ら、癒着の温床になった協立銀行・船橋支店への異動を申し出た。一方杉本は、次の役員会で鈴木会長派が斎藤頭取を解任しようとしているという情報を掴む。竹中の捨て身の行動と、松村の死に心動かされた杉本は、「役員会で逆に鈴木会長を追放しよう」と竹中に申し出る。多数派工作に奔走する竹中と杉本。役員会は、一度は斎藤頭取派に軍配が上がったかに見えたが、鈴木会長の「斎藤はヤクザと会っていた」という爆弾発言で紛糾。逆に斉藤頭取の解任が決議される。しかし、竹中には公には出来ない最後の切り札があった。鈴木会長の不正融資の証拠が記されたマイクロフィルムを、殺された松村が竹中に郵送していたのであった。
<レビュー>
これは映画「金融腐蝕列島(呪縛)」の続編である。
原田眞人監督が手掛けた「呪縛」のほうは、傑作であった。
しかし、こちらははっきりいってガッカリである。
あれほど面白かった前作が何故これほどトーンダウンしてしまったのか。
原因のひとつは原田監督ではなかったことにあるのは間違いないが、「再生」が映画ではなくTVドラマとして作られたことが何より大きい。
ひょっとしたらこれは・・・と思ってはいたがメイキングを見るまでTVドラマだとは気付けずにいた。
騙されたと思ったけれど、冷静に考えればそれは仕方のないことである。
何百億単位で金が動く話なので、物語のスケールは相変わらずデカイが、恐ろしくこぢんまりとしている。
おっさんとおばさんしか観ないような二時間ドラマの哀愁に満ち溢れている。
まあこれはこれで、無駄では無かったろう。
経済ドラマは基本的に面白い。
映画として考えると、語るにおちぬ駄作であるけれども。
今度、高杉良の経済小説でも読んでみようかな。
★★★☆☆
駿河シカヲ
suruga shikawo です。
TVドラマ「ハゲタカ」を観ました。
もうすぐ映画化されます。
劇場に足を運ぶ予定なので、良い予習になりました。
<公式HP>
http://www.nhk.or.jp/hagetaka/
<レビュー>
大抵のTVドラマは馬鹿にしてもよいが、TVドラマを侮ってはならないケースが稀にある。
やはり映画が好きならTVドラマもみるべきではないだろうか。
TVドラマはだいたいが陳腐である。
撮影も編集も時間がないから、とってだしの場合が多い。
しかし前提が陳腐であることを分かっていない人が多いために、フジの月9などは大作感を装った見るに堪えない駄作になってしまうのである。
月9なのかどうか知らないが、フジTVにありがちな、あの大仰な様式美にこだわったような移動撮影はなんとかならないものか。
そのくせ話が早急だからやたらゴチャゴチャしている。
更にMTV的なダサさが時々挟まれたりしていてそれもまた気分が悪くなる。
役者が皆スターなのが、また悲しかったりする。
要するにテレビドラマの制作にはB級映画の精神が必要なのだ。
だからぼくはB級映画を撮れる監督に月9ドラマの演出を手掛けて欲しいと思っている。
とは言うものの、TVドラマにもスケールの大きな傑作というのがごくまれにあって、例えばそれは今回観た「ハゲタカ」である。
しかしハゲタカはよくみると、ストーリーがダイナミズムに満ち溢れているだけで、演出や撮影自体はそんなに大袈裟ではない。
撮影などはむしろ手持ちが中心で結構雑である。
Yシャツで汗をかいている描写が多く、緊迫感とライブ感を演出している。
このややドキュメンタリーな感覚はフジTVにありがちな溝口健二失敗バージョンとは大きく異なり、好感が持てる。
フジTVの「離婚弁護士」はちょっと惜しい。
大袈裟なカメラワークがないけれども、弁護士事務所内のシーンになると手ブレがひどい上にカット割りが早すぎて気持ちが悪くなる。
早急すぎるのも問題なのである。
TVドラマは難しい。
で、「ハゲタカ」ですが、これはおすすめです。
傑作TVドラマです。
NHKは時折ホームランをかっ飛ばすので、侮れません。
ただ、この作品は映画で楽しめるのかどうか。
それが心配です。
★★★★★
駿河シカヲ
キム・ギドク「絶対の愛」を観ました。
<作品解説・詳細>
絶対の愛 - goo 映画
交際を始めて2年になる男性ジウを深く愛しながらも、彼に飽きられてしまうのではないかと不安に思っているセヒ。彼女は顔を整形する事を決意、突如ジウの前から姿を消す。セヒを忘れられず苦悩していたジウは、何人かの女性と肉体関係を持とうとするが、その都度何者かに邪魔をされる。そして半年後、以前セヒとよく行った喫茶店で魅力的なウェイトレスに出会う。彼女の名はスェヒ。次第にジウは彼女に惹かれてゆくのだったが…。
『サマリア』『弓』など、年1作のペースで快作を連打する韓国映画界屈指の鬼才、キム・ギドク監督が贈る究極のラブ・ストーリー。愛情の疑心暗鬼から、自分の顔を整形した女性と恋人の激しい愛が今作のテーマだ。顔を作り変えてまで永遠の愛を求めるヒロインに『女は男の未来だ』のソン・ヒョナ。彼女自身、数年前に整形したということを告白し、韓国での公開時に話題となった。世界有数の整形大国といわれる韓国の美容事情を背景に、キム・ギドク流の独創的なストーリーが観るものを圧倒すること間違いない。
<レビュー>
goo映画には「キム・ギドクの独創的なストーリー云々」と書いてあるけれども、
テーマ自体はもはやありふれている。
恋人の顔が整形手術によって変わっても愛し続けることができるのか。
絶対の愛とは・・・?
下手すると民放テレビドラマなんかでありそうですね。
今で言えば相武紗季あたりが主演でね。
ただしキムギドクはアウトサイダーなので、簡単なドラマにはならない。
極めて激しく危険なドラマになってしまう。
だが今回は、ありがちな話であるということで、ストーリーそのものについてキムギドクを褒めることはしないでおく。
ただ、最後と最初をつなげることで、話が延々ループするという構造はさすが。
キムギドクが優れているのは、なによりも単純な映画としてのクオリティの高さである。容赦のないアブノーマルな描写ばかりに気を取られてはならない。
おそらくこの人はひどく退屈な原作だって印象的な映画にしてしまうだろう。
演出そのもののレベルが非常に高いために、単純に映画として楽しめる。
シンボリックな演出、小ネタを配置することで話が立体化してゆく。
けれどもドラマツルギーがしっかり準備されているわけでもなさそうである。
要は天賦の才能で映画を作れる人なんですね。
つまりは北野武と同種の才能があるってことだ。
二十代は軍人として過ごし、三十代前半はフランスで画家として過ごし、ろくに映画も見なかったキム・ギドク。
天才である。
基本的に最近の韓国映画を最近の邦画よりも擁護している私ですが、ひとつだけ言わせていただきたい。
韓国人ちょっとキレやすくないですかね。
登場人物が瞬間湯沸かし器の率が多いと思うんですが。
そのへんの、我々との国民性の明らかな違いを、韓国映画から見出すことができます。
これは映画云々とは関係なく、文化人類学的な、社会学的な勉強。
★★★★★
駿河シカヲ
フジテレビドラマ「ハチワンダイバー」全十一話を観終えました。
<フジTV公式HP>
http://wwwz.fujitv.co.jp/81/index.html
<レビュー>
ドラマはちょいちょい観ていたんです。
でも全部観ていたわけじゃないんで、結末とか気になっていたんです。
おまけにマンガのほうが面白くてですね、
それでまあドラマもじっくりみてやろうってんで、少しずつDVDをレンタルしていたんです。
なかなか子供騙しのくだらぬドラマです。
しかし最終話までぼくは観てしまいました。
原作との相違点はありますが、
おおむね頑張っているのではないでしょうかね。
ああ、そういえば安田美沙子さんの演技はちょっとマズすぎでしょうね。
でもその下手さ加減を楽しんで観ていました。
仲里依紗さんは声色を使い分けたりして安田さんとの実力の違いを見せつけておりましたが、
結局見ていておもしろいのは演技の下手な人の、その下手さ加減なのですねえ。
主役の菅田役を溝端淳平くんというイケメンが演じておりますが、
どうなのでしょう、ぼくとしてはもう少し不細工なほうがいいんでないかって気はします。
ちなみにエンディングテーマをガッキーこと新垣結衣さんが歌っております。
おそろしくパンチのない声です。
優しい、というよりも、弱い声です。
それでもまあぼくはG○eeeeNの百倍、いや、一千倍は好きです。
なんですか、あのGR○eeeNというのは。けしからんですな。
友人のK君がGReeee○を最近車の中で聴いているようで、このまえK君の車の中でかかっていたんです。
反吐がでそうになりましたね。
29歳にもなって、なんですかあのお先真っ暗な歌詞は。
淀長先生が聴いたら怒りますよまったく。
そんなに手をつないでがむしゃらに前向きになったつもりになりたいんですかね。
歯医者だけやってりゃいいんですよ。
だいたいなんなんですかAq○a timezってのは。
千の夜を超えてあなたに何をそんなに伝えたいんですかね。
あんたも29歳なんだからそろそろ諦めなさいよ。
水野晴郎先生が聴いたら悲しみますよ。
話が逸れましたね。
てへっ
★★★☆☆
マダムと同席でスティーヴン・セガールの代表作「沈黙の戦艦」を観ました。
なかなかやります。
<作品解説・詳細>
沈黙の戦艦(1992) - goo 映画
テロリスト集団に占拠された戦艦を奪回するため、孤軍奮闘する男の姿を描く海洋サスペンスアクション。アラバマ州モービル湾に停泊し、現在は船の博物館となっているUSAアラバマ号を改造して撮影された。監督は「刑事ニコ 法の死角」のアンドリュー・デイヴィス。製作は「マンボ・キングス わが心のマリア」のアーノン・ミルチャン。エグゼクティヴ・プロデューサーはゲイリー・ゴールドスタインと脚本を兼ねる「ミストレス」のJ・F・ロートン。撮影は「刑事ジョー ママにお手上げ」のフランク・ティディー。音楽はゲイリー・チャンが担当。主演は「アウト・フォー・ジャスティス」のスティーヴン・セガール。ほかに「JFK」のトミー・リー・ジョーンズ、「ハートブルー」のゲイリー・ビジーらが共演。
米国海軍最大最強を誇るUSSミズーリ号。その長い栄光に満ちたキャリアを閉じる日が近づいていた。かつては2400人の海兵を乗せていた船は、今は必要最小限の人数で太平洋を横断、帰路に向かっていた。この船のコック、ケイシー・ライバック(スティーヴン・セガール)は、元SEAL先鋭の秘密戦闘要員で、そのことを知っているのは彼の指揮官アダムス大佐(パトリック・オニール)のみ。今はその過去を封印することを選択していた。だがミズーリ号の平和な航海は突然のシージャックで打ち砕かれた。犯人は軍の技術兵ウィリアム・ストラニクス(トミー・リー・ジョーンズ)とクリル中佐(ゲイリー・ビジー)。彼らは核兵器を盗み出そうと計画していたのだ。2人とその仲間30人を相手に、数人のクルーたちはライバックの指揮のもとに戦いを挑んだ。ライバックの大活躍で犯人グループは一網打尽にされ、無線連絡で駆けつけた救出隊が到着する前に、ミズリー号は解放されるのだった。
<レビュー>
スティーブン・セガール最強説を確かめるべく、観てみました。
セガールは強い。あきれるほど無敵でした。
彼のウィキペディアが面白いです。
こちらです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB
ウィキペディアによれば、「大きな困難やピンチが無く、一方的に敵を壊滅させるストーリーが大半で、その圧倒的な強さが痛快で人気を博している。」とあります。
まったくそのとおり。
また、ウィキペディアでは「エグゼクティブ・デシジョン」について触れています。
この映画は結構好きでした。
セガールが死ぬシーン(というか空に放りだされていなくなるシーン)は覚えています。ああ、もうここでお役御免か、完全にこれは特別出演だな、と思った覚えがあります。
驚くべきことに「エグゼクティブ・デシジョン」は唯一セガールが映画の中で死亡した貴重な作品なのだそうです。
こともあろうにぼくが唯一見たことのあるセガール出演作品が「エグゼクティブ・デシジョン」だったとは。
ただし、その作品でさえ「死体の確認はされていない」のです。
(笑)をつけたくなります。
本作においてピンチに陥ったシーンはわずかにひとつ。
描写があっさりしすぎていて、ピンチとも思えませんでした。
ハラハラもドキドキも皆無です。
ただただセガールが敵を一方的に殲滅せしめてゆくサマを楽しむのが良いでしょう。
ちょっと沈黙シリーズは気になります。
★★★☆☆
駿河シカヲ
マダムとともに、フランク・ロッダム監督の「さらば青春の光」を観ました。
<作品解説・詳細>
さらば青春の光(1979) - goo 映画
英国のロック・グループ“ザ・フー"が73年に発表したLP“四重人格"を基に若者たちの暴走、愛、挫折などを描く青春映画。製作総指揮はデイヴィッド・ギデオン・トムソン、製作はロイ・ベアードとビル・カービシュリー、監督はフランク・ロダム、脚本はデイヴ・ハンフェリーズとマーティン・スチルマンとフランク・ロダム、撮影はブライアン・テュファノ、音楽はロジャー・ダルトリーとジョン・エントウィスルとピート・タウンゼンドが各々担当。出演はフィル・ダニエルス、レスリー・アッシュ、スティング、フィリップ・デイヴィス、マーク・ウィンゲットなど
派手なデコレーションをしたスクーターに乗った若者たちが集まり、それぞれキマッた服に身を包み降り立った。細身のアイビー・スーツにネクタイを締め、米軍放出のロング・コートを無造作にはおっている彼らは、自分たちのことを“モッズ"と呼んでいた。ジミー(フィル・ダニエルス)は、広告代理店のメイル・ボーイをしている。仕事はつまらないが、給料は悪くないので、洋服代と散髪代とクスリ代には困らない。会社がひけるとジミーは、モッズの溜り場のクラブに行き、夜中をそこで過ごした。そのクラブには、絶えずロックの音楽が流れ、デイヴ(マーク・ウィンゲット)、チョーキー(フィリップ・デイヴィス)らが集まっていた。ジミーはその店で見つけた娘ステフ(レスリー・アッシュ)に関心を寄せていた。モッズの間では、ロッカーズとの対決の話題でここのところもちきりだった。リーゼントの髪をグリースで固め、汚ない皮の上下でオートバイを乗り回しているこの“ロッカーズ"とは、お互いに軽蔑し合う仲で、ことあるごとに衝突していたのだ。次の週末には、“ブライトン・ビーチ"で勝負をつけることになっておりジミーはスーツを新調し、クスリを大量に手に入れ、その日の来るのを待った。いよいよ、決闘の日が近づき、ブライトン・ビーチに集まるモッズとロッカーズ。ステフも来ている。しかし、彼女はクロームの銀ピカのスクーターでキメているエース(スティング)に夢中のようだ。翌朝海岸通りをシュプレヒコールで歩くモッズとロッカーズの乱闘がはじまった。しかし、その決着がつかぬうちに、警官隊が出動した。ジミーとステフは狭い路地に逃げこみ、そこで2人は体を合わせた。留置場で一夜を明かし、戻って来たジミーは、母親から家を出るように言われ会社もクビになってしまった。ものにしたと思ったステフも今はデイヴの恋人になっていた。むなしいままに一人スクーターを走らすジミーは、いつのまにかブライトン海岸に来ていた。モッズの矯声の消えたカフェに坐り、浜辺にうずくまるジミー。ロッカーズとの衝突の日が嘘のように、そこは色褪せてみえた。海岸通りを歩くジミーの眼にクロームの銀ピカのマシーンが映った。それはエースのスクーターだった。一緒に警官と闘い捕まり、裁判に立ったエース。しかし、懐かしさに歩み寄るジミーの目の前に現われたエースの姿は、イソイソと働いているベル・ボーイであった。モッズのスーパー・スターのみじめな姿をそこに見たジミーは、完全にすべてが過去のものになったことを感じた。エースのスクーターを奪うと、ジミーはドーバー海峡の壁面の断崖を走った。彼は思いつめた表情で何か叫ぶと力いっぱいアクセルをふかすのだった。
<レビュー>
さらば青春の光って言ったら、ぼくの中ではやっぱ布袋さんですよ。
布袋さんの暑苦しいボーカルを思い出します。
大学時代ぼくは軽音楽サークルにおりまして、一部の先輩がモッズの格好をしておりました。
当然べスパに乗っていました。
で、この映画はモッズの話です。
こいつらはただの馬鹿です。チンピラです。ロクデナシです。
モッズはロッカーズと抗争します。
アホです。
この二つのグループがブライトンに集結して大乱闘になります。
物凄い人数です。暇な奴等です。いい迷惑です。興奮します。
みなさん、何はともあれ、ブライトン・ビーチの大暴動は必見です。
人がうじゃうじゃいて、そいつらがワーワーやり合うだけで、映画として面白いということが分かります。
主人公ジミーは最後死んでおりません。
このあと最初のスクーターを落として海岸を歩くシーンにつながっている、ということです。
We Are MODsの大合唱でふと思いました。
We Are REDsの大合唱はこれからパクったんですかね。多分そうですね。いやどうだろう。
若者は挫折する生き物なのでしょう。
若者の挫折を描いたこの作品を観て、痛々しさを感じないのは何故だろう。
ただし、若いということが惨めだというのは、
まあそうなんだろうなあと思います。
ファッションはキメすぎていて軽薄な印象だし、喜怒哀楽すべてが怒に向かっていて、苛立ちをコントロールできないサマは身につまされないわけでもない。何もかもかっこ悪すぎます。
お洒落な雰囲気を楽しむ見方もあります。
まあそれでもいいんでしょう。
モッズ達の憧れであるエース役のスティングはそんなにカッコいいのでしょうか。
正直良く分かりませんでした。
エースがホテルのベルボーイの仕事をしていることを知って、
それに幻滅した主人公ジミーはあろうことかエースのバイクを奪って疾走します。アホです。
金がなきゃ、お洒落なんてできないからね。
ジミーは本当にアホです。
挙句の果てにジミーは死ぬこともできず、エースのバイクを崖から海に放ります。
アホのスパイラルです。
良くも悪くも、
印象的な映画です。
★★★★☆
駿河シカヲ
こんばんは、マダムよ。
まぁいい映画よね。
いきなりゆきえちゃんのお尻から始まったわ。
まさかこのくだりがシカヲちゃんの推す川村ゆきえちゃんのエロスじゃないわよね
と思ったらそうだったみたいよ。
もうちょっと妖艶な何かかと思ったのに。シカヲちゃんてば中学生並じゃない。
最初の軽薄な人間模様でイヤになりかけたけど、いしだ壱成ちゃんが出てきたから持ち直したわ。
永作ちゃんも出ていたしね。
徹頭徹尾、他人とのキスの場面とっても、部長に対する気持ちの強さ、ブレのなさを疑わせない演技はいいと思うわ。素晴らしいわよね。
昔いたわよ。
浮世離れした男。
別に気球にはまっていたわけじゃないけど、いっつも空ばっか見てるのよね。
一緒に歩いているといっつも危なっかしくて、段差があったりするとよく注意してあげたのよ。
私といないときちゃんと歩けてるのかすら不安だったわ。
何かに夢中になってると全然周りが見えなくて、アテシすら見えないみたいだし
でもさみしいときはメチャクチャ甘えてくるのよね。
なんて自分勝手なのかしら。
でもアテシに対する気持ちが普通の人とは全く違うくらいの強さで、やっぱりそれを感じちゃうとダメなのよね。
自分の好きなものに対する気持ちやそのぶつけ方が常人とは桁外れなのよ。
女はそういう男を一人心において、誠実でまじめな男と一緒になるのが幸せなのかもしれないわね。
あら、アテシ今日は毒を吐いてないわね。
シカヲちゃんにしか。
ちょっとセンチメンタルな気分なのかしら。
ごきげんよう
渡辺謙作監督「となり町戦争」を鑑賞。
<作品解説・詳細>
となり町戦争 - goo 映画
舞坂町に暮らし始めて一年、北原修路は町の広報紙で隣りの森見町と戦争が始まる事を知る。しかし、開戦初日を迎えても町の様子に変化はなく、戦争を実感することは何一つなかった。広報紙に掲載される戦死者数を除いては…。数日後、対森見町戦争推進室の香西と名のる女性から電話があり、特別偵察業務辞令の交付式への出席を促される。その業務の延長で、やがて北原は敵地へ潜入するため香西と結婚する事になる…。
行政事業としての戦争を業務として遂行する。それは旨味のある商売ゆえに町興しの一貫として粛々と進められるのだ。戦争である以上、人は死に、愛国心ならぬ町への愛を胸に兵士たちは血を流し倒れて行く。が、所詮、死者は統計上の数字に過ぎない。地球上のどこかでいつ果てることなく繰り返される戦争の本質的な不気味さを描いた本作は、05年の第17回すばる文学賞を受賞し、一大センセーションを巻き起こした新鋭・三崎亜記のデビュー小説の映画化。戦時下であることを実感できないまま否応なく戦争に取り込まれて行く主人公・北原を江口洋介、一切の感情を押し殺し任務を淡々とこなす町役場の香西さんに原田知世が扮している。
<レビュー>
なんてもったいない映画なのだ。
原作がそこそこ面白かったので、観てみた。
となり町と戦争になった。
でも普通に暮らしている。
となり町には毎日仕事で通っている。
戦闘状態を目撃したことはないが、新聞によると戦死者はでているらしい・・・。
こういった、わけがわからなくてちょっと怖い設定というのは、とてもおいしいと思う。
原作者の功績です。
ただ、これは小説にも映画にも言えたことだが、変に説教くさいところはいらないと思うのである。
戦争がどうだとかいうメッセージはいらん。くどいけれどもこれは小説にも言えること。
前半はコメディタッチを選択している。
それはそれで良いのだが、そのまま最後まで押し通して欲しい。
シリアスにするなら徹頭徹尾シリアスにすればよい。
ホラー映画ぐらいに不気味にも出来るはず。
中途半端なヒューマンドラマになってしまったことが残念。
初見なので言いきってしまうことはできないけれど、多分渡辺謙作という監督は、ものすごく駄目な監督だと思う。
ただ物語を説明しているだけ、という感じがする。
このあと渡辺監督は「フレフレ少女」を撮っている。
ガッキーはつくづく不幸だなあ。
なんて惜しいのだ。傑作にできるストーリーであることは間違いないのだ。
ハリウッドがリメイクさせてくれーと言ってきそうな話だ。
渡辺監督じゃなければ・・・。
とかぶつぶつ言いながら渡辺謙作のキャリアについて調べてみると、いろいろとびっくりする。
あれ、「ラブドガン」の監督だったのか。
すっかり名前を失念していた。
「ラブドガン」は奇妙にかっこいいノワール映画である。
いろいろ心に引っかかるシーンが多く、そろそろもう一度観てみようと思っていた。
そして、彼は奥原浩志の「波」に出演していることが分かった。あれも大変素晴らしい映画だった。
どの役で出ていたんだろうと思い、画像検索する。
渡辺監督の顔がでてきた瞬間「アッ」と心の中で叫ぶ。
「波」の主役の人だったのか!
急に親近感がわく。
酷いこと言ってごめんよと思う。
でも、この作品はあまりに無表情で、面白くない。
ラブドガンを見る限り、エンターテイメント的な興奮を作る映画作家ではないけれど、
確実に映画的な戦慄や感動を詰め込んだ決定打をワンシーンの中にかっ飛ばすことのできる人であることは間違いない。
無表情で面白くない、と言ったけれども、それはそれで一つの味なのかもしれない、などと擁護したくなる気持ちをぐっと抑えて、ここは厳しい評価をくださなければならぬ。
といいつつも、本作には星四つあげたい。
何故なら原田知世が素晴らしいからだ。
とにかく原田知世がきれいに撮られている。
きっと見た人はみんな好きになる。はず。
★★★★☆
駿河シカヲ
駿河シカヲです。
マダムと同席でノ―ラ・エフロン監督「ユー・ガット・メール」を観ました。
<作品解説・詳細>
ユー・ガット・メール(1998) - goo 映画
インターネットで知り合った男女の運命的な恋を描いたラブ・ストーリー。「めぐり違えたら」のノーラ・エフロン監督、主演のトム・ハンクスとメグ・ライアンが再び顔を合わせた作品。監督は「マイケル」のノーラ・エフロンで、脚本は同作に続いて姉デリア・エフロンとの共同。製作はノーラ、「ボルケーノ」のローレン・シュラー・ドナー。製作総指揮はデリア、「陰謀のセオリー」のジュリー・ダーク、「マイケル」のG・マクブラウン。撮影も同作のジョン・リンドレイ、音楽は「カルラの歌」のジョージ・フェントン、美術は「マイケル」のダン・デイヴィス、編集は「恋愛小説家」のリチャード・マクス、衣裳は「ジャッカル」のアルバート・ウォルスキー。主演は「プライベート・ライアン」のトム・ハンクスと「シティ・オブ・エンジェル」のメグ・ライアン。共演は「フラート」のパーカー・ポージー、「マイケル」のジーン・ステイプルトン、「恋愛小説家」のグレッグ・キニアほか。
ニューヨーク。亡き母から受け継いだ小さな絵本の店を経営するキャスリーン(メグ・ライアン)には同棲中の恋人フランク(グレッグ・キニア)がいるが、インターネットで知り合った見ず知らずの相手と交信していると心ときめく。二人は互いに相手のスクリーンネームしか知らない。ある日、すぐ近くに大手書店チェーンが進出することになり、彼女はそこの御曹司ジョー(トム・ハンクス)と反目し合うが、彼こそ例の交信相手だった。彼もまた編集者の恋人パトリシア(パーカー・ポージー)よりも、未知の相手との交信に安らぎを覚えていた。そうとも知らず、彼らはEメールで現実の恋人以上に心を通わせる。やがてキャスリーンの店は倒産するが、ジョーは偶然から彼女が「Shoppgirl」であることを知る。やがて、自分が本当に求めている相手が誰かを知った二人は、互いに結ばれるのだった。
<レビュー>
今日観ました。
他にレビューしなければならない作品がほかにたまっているんですが、本作は特に言及すべき点が見当たらないので、先に簡単に済ませようと思いました。
まず、この作品が98年ということに驚きました。
もうそんなに経っているのか。
この映画のメグ・ライアンは結構年もいってるのかなあって感じ(かわいいけれど)なんだけど、それから十年たった今はもう完全におばちゃんになっちゃったんですかね。
まあいいか。
ありがちな映画です。
非常に良心的だし、軽い気分で観られます。
展開も読めます。
トム・ハンクスはイケメンではないからムカつきません。
映画の中で実はかなりの策士なんだけどね。
書くことがまったくないな。
なんかないですか。
ああ、そう、ニューヨークっていい感じですね。
ちょっと寒そうだけど。
本屋っていいね。
本屋が舞台なんです。
本屋ってなんであんなに落ち着くんですかね。
通りかかるとわけもなく入ってしまいますよね。
本屋さんになりたい気もするなあ。
でも本が売れない時代ですしね。
でもCDショップと本屋のどちらかをやれって言われたら、ぼくは本屋を選びます。
まあ、どっちもやれないけどね。
金も無いしね。
本気でやるつもりもないし。
ノ―ラ・エフロン監督は「めぐり逢えたら」も撮っているんだね。
そういえばあれもトム・ハンクスとメグ・ライアンだったな。
思い出したよ。
昔観たよ。
野球部のKくんと、ぼくんちで。
なんで高校生のクソ坊主二人であんな大人の恋愛映画を観たのかね。
全然覚えてないけど。
Kくんとはいろいろ一緒に映画を観た記憶があります。
グリーンマイルとかレインメーカーとかフォレストガンプとかアルマゲドンとか、いろいろ観た記憶があります。
懐かしいです。
では。
今回はすみません、特に言うことないです。
★★★☆☆
駿河シカヲ
園子温監督「気球クラブ、その後」を観ました。
<公式HP>
http://www.kikyuclub.com/
<園子温公式HP>
http://www.sonosion.com/
<作品解説・詳細>
気球クラブ、その後(2006) - goo 映画
五年ぶりに再会したサークルのメンバーたちが、それぞれの青春を振り返りつつ現在の自分を見つめ直すほろ苦い青春ドラマ。監督は「紀子の食卓」の園子温。出演は「HAZARD」の深水元基、「好きだ、」の永作博美。
サークル“気球クラブ・うわの空"には、本当に気球が好きな人、寂しさを紛らわしたい人、恋愛や友情を求める人など、さまざまな想いを抱いた若者たちが集っていた。5年後、ガールフレンドのみどり(川村ゆきえ)と微妙な関係を続けている二郎(深水元基)のもとに、かつての仲間から1本の電話が入る。サークルのリーダーだった村上(長谷川朝晴)が、突然の事故で亡くなったという。このことをきっかけにバラバラになっていたメンバーは再び集まり、村上を偲んで大宴会が行われることになった。これが最後の、一夜限りのバカ騒ぎだということに、彼らは気付いていた。二郎はそこで、村上の恋人だった美津子(永作博美)と再会する。そして美津子の村上への深い想いを知るのだった。
<レビュー>園子温監督は何故か無視していた。
ぼくは駄目な奴だ。
海外で評価されてからようやく重い腰をあげて、氏の作品を観ることにしたわけです。
これは、いい。
好きな作品だ。
撮り方はそんなに好きじゃない。
最近思うのだけれど、どっしりカメラを固定して撮る人があんまりいないように思う。
スピード感を重視しているのかやたらカット割りが細かいし、手持ちのハンディカメラを使う人も増えた。
園子温はそれが顕著なわけではないけれども、どちらかといえばそれに近いような気がした。
二人が向かい合って座り、会話するシーンの、高速切り返し。
小津安二郎は律儀に、頑固に、ラモーンズ的に、偏執狂的に、真正面からの切り返しで会話をさせるが、本作の切り返しは、結構速い。
速いといえば、前に離婚弁護士というテレビドラマを観たが、その時も向かい合う両者の会話の切り返しが無茶苦茶速くて、めまいがした。
それに近いものを感じる。まあ、あそこまでひどくはないけれど。
昔は時の流れが今よりもゆるやかだったんでしょうなあ。
いいなあ、小津安二郎。
話が逸れた。
そう、この作品が好きだってことを書きたかったのに、つい貶してしまった。
違う、そうじゃない。
園子温は確実に才能があるはずだ。
頑張って欲しい。
しかし、ぼくは大学生のサークルのノリが大嫌いです。
軽薄な奴らを観ているとぶん殴りたくなります。
本作の「気球クラブ」の奴らも基本そんな感じで、ぼくは大嫌いです。
多分奴らはたのしくわいわい騒げれば良いのだ。
気球じゃなくてもいいのだ。
部長以外は、みんなそうだ。
なんだ、あの飲み会は。
すげーありがちだ。
死ね、と思う。
これは作品の悪口を言っているわけじゃないよ。
大学のサークルにありがちな雰囲気をうまく表現していて、いいなあと思ったのです。
みんななんやかんや就職して、まあしっかり生きてゆくのです。
部長以外は。
やはり部長は死んでしかるべきだった。
死なないなら堕落していただろう。
またはドンキホーテのような狂人になっていただろう。
なんとなく胸が痛くなる映画です。
そこそこ幸せな人生を送っている奴等の話なんだけれど、つまらんどん底の青春を送ったひとのほうがある意味楽しめるのかもね。
あと、ビッチな女(こういう人すごくいそう)を演じた川村ゆきえのエロさが特典として味わえます。
それからメインテーマは「翳りゆく部屋」です。
これは反則。
永作博美は、女優賞をいただけるくらいの凄い演技をします。
思わせぶりな気がしなくもないが。
狂気に触れそうで触れないあの表情はたまらないですね。
特に、ラストの泣きながら笑うシーン。
これは凄いです。
観る価値があります。
★★★★★
マダムと一緒に「高校教師~恋の教育実習~」という酷い韓国映画を観ました。
監督の名前は知りません。
調べる気にもなりません。
<作品解説>
goo 映画
姉の結婚式以来“初夜”に対する好奇心でいっぱいの女子高生ソンウン、スヨン、ミスクの3人。そんなある日、彼女たちが通う学校に超イケメンの教育実習生がやってくる。彼に夢中になった3人は、彼との“初夜”を巡って争うのだが…。次世代韓流スターのイ・ジフン主演で贈る、ちょっぴりエッチな学園ラブコメディ。
<レビュー>
酷いです。
観賞中、マダムが呆れながらボソッとこんなことを言っていました。
「・・・日本のTVドラマの悪い部分だけ影響受けちゃってるわね」
もうこの言葉に尽きると思います。
なにもかもが軽薄です。
アホなテンションではじまり、それで押し切るならまだよいけれど、途中から中だるみしてくるのです。
最悪ですね。
これを昼間から観ている俺達は一体何なんだろうかと、何度か思いました。
あ、でも、あれですね。
観ているとそれなりに感情移入してきますね。
たいして可愛くもないかなあと思っていた主演の女の子が可愛くみえてきますね。
ぼくが思うに韓国映画って、酷いのと素晴らしいのと、差が激しいような気がします。
そこそこ、というのがあんまり無いかな。
キム・ギドク、ポン・ジュノ、イ・チャンドン、ホ・ジノなんかは素晴らしい映画を撮ると思います。
それから、「オールドボーイ」などを撮ったパク・チャヌクなんかもぼくの好みではないけれど、最近の日本の映画よりは遥かに熱のこもった力作を撮ると思います。
しかし、なんでしょうね。こういうアホなトレンディドラマ崩れの映画は輸入しないで欲しいですね。
どうせならもっと最低な映画を輸入して欲しいです。
ぼくなんかは十代から日本のトレンディドラマをそこそこ観てきた(というほどでもないけど)ので、こういう軽薄な作品を観る耐性はあるのです。
それだけに中途半端につまらないなあという、ある意味最悪なパターン、全然レビューのしがいが無いパターン
になってしまうわけです。
ということで、星二つ。
ああ、そういえば、女子校の先生って、ちょっといいかもね。
★★☆☆☆
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。