駿河シカヲです。
ジョニー・トーの『エグザイル / 絆』を観ました。
いままで知らなくてごめんなさいっていうぐらいの傑作です。
<作品解説・詳細>
エグザイル/絆 - goo 映画
中国返還を間近に控えたマカオ。昼下がりの住宅街で4人の男がひとりの男の帰宅を待っていた。タイとキャットは彼を守るために、ブレイズとファットは彼を殺すために。5人は、かつては強い絆で結ばれていたのだが…。やがてその男、ウーが帰ってくる。そして始まる銃撃戦。だが、赤ん坊の泣き声がした時、男たちは銃を下ろす。そしてウーの妻も交えて晩餐を楽しむのだった…。
熱狂的なファンに支持されているジョニー・トー監督の、最高傑作と言われる本作。ヴェネチア映画祭を皮切りに世界中の映画祭で絶賛されている。『インファナル・アフェア』シリーズでお馴染みのアンソニー・ウォン、フランシス・ンをはじめ、ジョニー・トー組とも言うべき、香港映画界を代表する一癖も二癖もある男優たちが集結した。二転、三転するスリリングなストーリー、幾度も展開される、“これぞクライマックス”と思わせる銃撃戦が見どころだ。さまざまなシーンに込められたオマージュや“遊び”に、トー作品ファンなら感嘆の声を漏らすこと必至。そうでなくとも、男たちの生き様に美しい絆に、感動を抑えられないだろう。
<レビュー>
香港ノワールといったら、『インファナル・アフェア』シリーズしか知らなかった私です。
久しぶりに鬼才を発見しました。おせーよっていわれるんでしょうね。
凄い映画です。
近年のアクション映画では最高峰でしょう。
まず冒頭からしてわくわくします。
人物配置、完璧です。
何故即興で撮れるのかが不思議なほど緻密なカメラワークです。
気のきいた演出も素晴らしい。
ドンパチの開始を告げるレッドブルの空き缶。
女を遮断するカーテン。
美しく翻り舞うコート。
おそるべし、ジョニー・トー監督。
と、思って、過去の作品を調べると、金城武主演『ターンレフト・ターンライト』を撮ってるんですね。
これは、いまどきテレビドラマでもやらねーよってぐらいのアホな純愛クソ映画です。
というのはあくまで褒め言葉です。ラストが必見です。一応観ておいて損はないクソ映画です。
『エグザイル / 絆』はホモソーシャルな世界を描いた映画です。
いわば男の映画です。男の友情や男の美学や男のバカさというものが描かれております。
と言うと、ロバート・アルドリッチやサム・ペキンパーなどを思い浮かべますが、まさにラストは『ワイルドバンチ』です。
あのどうしようもなく震えるラストです。
ミッシェルガンエレファントの『赤毛のケリー』であり、『エレクトリックサーカス』であるのです。
ここまで言うとオチが分かってしまうかもしれませんが、分かっていたとしても最高に楽しめるでしょう。
おすすめです。
ジョン・ウーにビッグバジェットの作品を撮らせるぐらいなら、ジョニー・トーがかわりに撮るべきです。
例えば、ジョン・ウーお得意の無駄なスローモーションに比べると、ジョニー・トーのスローモーションのほうがずっと素晴らしいのです。
さきほどあげたラストの『ワイルドバンチ』的な銃撃戦は、北野武スタイル、いわば逃げも隠れもせず、突っ立ってただただ撃ちまくるスタイルをとっています。
北野武というのはやっぱり凄い監督なんですね。
★★★★★
成瀬巳喜男「浮雲」を観ました。
<作品解説・詳細>
浮雲(1955) - goo 映画
林芙美子の代表作を「山の音」の水木洋子が脚色し、「晩菊」の成瀬巳喜男が監督する。撮影は「ゴジラ(1954)」の玉井正夫、音楽は「不滅の熱球」の斎藤一郎が担当した。出演者は「この広い空のどこかに」の高峰秀子、「悪の愉しさ」の森雅之、「結婚期」の岡田茉莉子、「真実の愛情を求めて 何処へ」の中北千枝子のほか、山形勲、加東大介、木村貞子などである。
幸田ゆき子は昭和十八年農林省のタイピストとして仏印へ渡った。そこで農林省技師の富岡に会い、愛し合ったがやがて終戦となった。妻と別れて君を待っている、と約束した富岡の言葉を頼りに、おくれて引揚げたゆき子は富岡を訪ねたが、彼の態度は煮え切らなかった。途方にくれたゆき子は或る外国人の囲い者になったが、そこへ富岡が訪ねて来ると、ゆき子の心はまた富岡へ戻って行った。終戦後の混乱の中で、富岡の始めた仕事も巧くゆかなかった。外国人とは手を切り、二人は伊香保温泉へ出掛けた。「ボルネオ」という飲み屋の清吉の好意で泊めてもらったが、富岡はそこで清吉の女房おせいの若い野性的な魅力に惹かれた。ゆき子は直感でそれを悟り、帰京後二人の間は気まずいものになった。妊娠したゆき子は引越先を訪ねたが、彼はおせいと同棲していた。失望したゆき子は、以前肉体関係のあった伊庭杉夫に金を借りて入院し、妊娠を中絶した。嫉妬に狂った清吉が、富岡の家を探しあて、おせいを絞殺したのはゆき子の入院中であった。退院後ゆき子はまた伊庭の囲い者となったが、或日落ちぶれた姿で富岡が現れ、妻邦子が病死したと告げるのを聞くとまたこの男から離れられない自分を感じた。数週後、屋久島の新任地へ行く富岡にゆき子はついて行った。孤島の堀立小屋の官舎に着いた時、ゆき子は病気になっていた。沛然と雨の降る日、ゆき子が血を吐いて死んだのは、富岡が山に入っている留守の間であった。ゆき子は最後まで環境の犠牲となった弱い女であった。
<レビュー>
成瀬巳喜男はヤルセナキオと呼ばれていたようであるが、
むしろヤルセナキオにふさわしいのは森雅之である。
雨月物語を観たときにも思ったけれども、彼の演じるやるせなきダメ人間ぶりが非常に素晴らしい。
そして「浮雲」における彼などは、太宰治がそこに宿っているのである。
単純にキャラクターと風貌が似ているので、まだこの映画を観ていない方は是非それを確認して笑っていただきたい。
ただし、本気で死のうとしていないところは、太宰とは違うが。また、森は「僕は死ぬ勇気も無いんだよ」という台詞を言っている。
この映画はひどく疲れる。
台詞がきついのだ。
高峰秀子が女たらしでだらしなくて狡猾で小心者でモテて格好をつけたがる森雅之に対して、ことごとく的を得た小言を言い続けるのだが、それがきつい。
男女がお互いの醜い部分をビシビシと追及し、反目し合いながらも結局愛し合わずにはいられない二人の愛を描いている。
いわばあれが本当の恋愛至上主義の人達なのでしょう。
テーマ自体はありふれているが、ここまでの何気ないエグさはちょっと無い。
これは映画そのものが凄いというより、脚本の勝利なのかな。
いや、脚本の勝利などと言ってしまうと、じゃあ本読めば事足りるじゃないかという話なので、
これは極めて映画的な作品であるということはちゃんと言っておかねば。
ただ、溝口や小津のような強烈な個性が画面に映っていたかといえば、それはない。
その辺が作家主義的な立場からは評価されづらく、職業監督としての評価につながっているのでしょうかね。
ただ、溝口健二は三本しか観ていないので何とも分からないが、小津安二郎が作家主義的であったかと言えば、断じてそんなことは無いのだが。
真面目に観たら意外に凹むので、これから観ようという方には注意していただきたい。
基本的に真摯なコミュニケーションを「面倒くさい」と思うぼくなんかは、
ますます恋愛が嫌になってきました。
そしてなにより自分が本気で嫌になります。
ある意味最悪な映画です。
★★★★★
駿河シカヲ
先日花見をしました。
マダムも来ました。
葉桜でした。
で、今日は奥原浩志監督の「青い車」です。
深夜映画の録画です。
<作品解説・詳細>
青い車(2004) - goo 映画
漫画家よしもとよしともの同名傑作を、海外映画祭でも高い評価を受けてきた「タイムレス・メロディ」の奥原浩志監督が映画化。日常の中にある孤独や退屈や諦めと、それでも生きていかなければならない現実をクールに描く。ARATA、宮崎あおい、麻生久美子、そして田口トモロヲと、日本映画界をリードしつづける役者陣がそろった。音楽を担当するのは、映画初挑戦となる曽我部恵一。
子供のときの大事故で片目に大きな傷を負ったリチオ(ARATA)。その頃から、死に損なったような今の自分を、子供の自分がどこからか見ているような気がしている。傷を隠すために大きなサングラスをしているリチオは、バツイチの店長マチダ(田口トモロヲ)がやってる中古レコード店に勤めながら、時々クラブでDJをしている。いいようのないイラ立ち。ただなんとなくやり過ごす日々。恋人は、不動産会社に勤めるアケミ(麻生久美子)。順調ともいえるし、倦怠ともいえる関係。アケミには高校生の妹・このみ(宮崎あおい)がいる。ある日、このみとリチオは街でばったり会う。名前も覚えてくれていないリチオをこのみは昼食に誘い、その後リチオの部屋へ行く。サングラスをとったリチオの顔が見たいと言うこのみ。リチオは自嘲気味に笑うと、このみにキスする。ゆっくりと外されるサングラス。現れた片目の傷。このみはリチオの顔を見て言う「かけてない方がいい」。アケミは、リチオの手首にある無数の傷に気付きながらも、いつも聞けずにいた。「ずっと幸せだったらいいな」ぼんやりとアケミがつぶやく。リチオは答える「そうな…」。アケミにもこのみにも言えない苛立ちを抱えたまま、毎夜不穏な夢に悩まされていたリチオは、もう会うのをやめようとこのみに告げる。そんなとき、出張で熱海に向かっていたアケミが、交通事故で死ぬ。リチオは、夜ひとりで青い車を走らせてカーブに差し掛かると目を閉じ、急ブレーキを踏んだ。よみがえるアケミの笑顔。ふと見ると、助手席には子供の頃の自分が座っている。リチオは、その子に言う「…教えてやるよ。あれからどんなことがあったか」。そんなある日、両手いっぱいの花束を抱えたこのみが、リチオの前に現れた。その花束を、海に投げるのだと言う。ふたりは青い車に乗って、高速道路を走らせる。やがて広がる輝く海。このみの目からこぼれ落ちる涙。このみはリチオに、ある告白をする。
<レビュー>
奥原浩志は巧い。
何が巧いかというのは、現代的な若者の日常を描くのが巧い。
意地悪く言えば、若者の、その、まあその「いかにも」って感じの、こう、邦画好きでややサブカル好きの、ロッキンオンとかにのってるバンドとか聴いていて、ちょいお洒落気味な感じの若者が好きそうな映画を撮るのが巧い。
でも悪口みたいに思われるから、ちゃんと言っておくと、ぼくは好きな監督である。
それだけじゃないからである。
登場人物は、頭がイカれる寸前で平静を保ちながら生きている。
これは佳作「タイムレスメロディ」でも傑作「波」でもそうだった。
完全に発狂までいかない、いや、いけない感じがリアルで共感できるポイントなのだが、
「青い車」の致命的とも言える欠点(とみせかけて欠点ではない)は、主要キャスト(麻生久美子、宮崎あおい、ARATA)がマズいってことだ。
何がマズいかっていうと、演技が悪いわけじゃなくて、華がありすぎるってことだ。
冷静に考えて下さい。
とある姉妹がいて、姉が麻生久美子で妹が宮崎あおいだったら、どうですか。
その二人と恋人関係になるのがARATAだとしたら、ぼくらがその世界に入り込む余地はないでしょう。
だから、若者のみなさん注意してください。
これはリアルな感触の映画のようで、実はぼくらの住む世界とはまったく異空間なのです。
感情移入してはならないのです。
みなさん怖い怖い怖い映画ですよ(淀川風)。
スターを配して、しれっとこういった日常的映画が撮られてしまっていることにもっと気付いてゆきたいです。
これより低予算で撮られた「波」は「青い車」と同じく、破滅すれすれの日常を描いた青春群像劇なのだが、キャストがほどよく視覚的な魅力を欠いているぶん、リアルではあります。
リアルだから良いというわけでもないけれども。
ただ、やはり本作は「波」や「タイムレスメロディ」ほど好きにはなれないのです。
ちなみに音楽は曽我部恵一です。
いかにもって感じでしょう。
曽我部さんが悪いわけじゃありません。
劇中歌は良い曲です。
ただ、いかにもな感じを打破するような何かが全体的に足りない。
良い意味での裏切りを期待したいのだけど。
でも、やっぱりさすが。
八方塞がりの日常の、気付きたくない怖さに気付く。
うすら寒い感覚は、確かに残った。
でも評価は辛口。
一回目なら星四つだったが、二回目となると厳しいかなあ。
★★★☆☆
駿河シカヲ
ウディ・アレンの代表作の一つ、「アニー・ホール」を鑑賞。
<作品解説・詳細>
アニー・ホール(1977) - goo 映画
大都会ニューヨークに生きる男と女の出会いと別れをコミカルに描くラブ・ストーリー。製作総指揮はロバート・グリーンハット、製作はチャールズ・H・ジョフィ、監督は「スリーパー」のウディ・アレン、脚本はウディ・アレンとマーシャル・ブリックマン、撮影はゴードン・ウィリスが各々担当。出演はウディ・アレン、ダイアン・キートン、トニー・ロバーツ、キャロル・ケイン、ポール・サイモン、ジャネット・マーゴリンなど。
ニューヨークとは限らない。大都会とは少々変わり者でも生きていける所だ。山の手に住むユダヤ系のアルビー(W・アレン)もそんな1人。彼はTVやナイトクラブのトークショーで稼ぐ漫談芸人。歳の頃は40、離婚歴1回のド近眼メガネ人間だ。そんな風采の上がらない小男の彼だが、なぜか女の子には人気がいい。彼の周りにはいつも女の子がウロチョロ。そんな彼がある日、友人のTVディレクターのロブ(T・ロバーツ)達とテニスに行って、1人の美人と出会った。会話もユニークな彼女の名は、アニー(D・キートン)。どこか屈託のない童女の雰囲気の彼女に出会ってからアルビーが変わった。アニーとのデートが日課の一つになったのだ。2人が同棲生活に入ったのはそれから間もなく。お互いにのぼせあがっていた2人も時がたつにつれて、お互いのアラが目についてきた。アルビーの周りには、あいかわらずTV局の女ロビン(J・マーゴリン)や、アリソン(C・ケーン)がいて、アニーは気になり、アルビーもアニーのつかみどころのない生き方がわからない。ましてアルビーは、男の独占欲にめざめてきたのだ。行きづまった2人の関係。2人は精神分析医の所に行き、2人の溝は埋まったかに見えた。だがそんなある日、アニーがいつものようにクラブで歌っていると、プロ歌手トニー(P・サイモン)が彼女の歌をほめ、カリフォルニアにくるようにすすめる。彼女は有頂天になり、精神状態も全快へとむかったが、アルビーはまだダメ。彼はアニーとトニー、果てはロブの仲まで疑い出したのだ。もうこうなってはおしまいだ。2人は別居を決意し、アニーはカリフォルニアに飛んで行った。一方、残されたアルビーを襲う寂寥感。アニーの後を追い、カリフォルニアに行き、やり直そうとアニーに迫るアルビーだったが、今のアニーは歌手としての成功の方が気になっていた--。
<レビュー>
一般的に名作と呼ばれているものを貶すのは非常に難しい。
この作品は、だいたい誰が見ても面白いと思うだろうし、ウディ・アレンって才能あるんだろうなあと思うだろうし、アイデアがいちいち気が利いてちょっとしたものだなあと思うだろう(観客に話しかけるのはゴダールですね)。
ぼくも当然そう思ったのだけれども、なぜか評価する気になれない。
ただただ、気に入らないということです。
申し訳ないです。
映画の中でシリアスに、本気でふざけている姿勢は間違いなく素晴らしいと思うのです。
精神科に10年以上通い続けているニューヨーカーの放つ自虐的なギャグは痛々しくも軽快で、なおかつ哲学的な領域に及んでいる。
誰彼かまわず見るものすべてを皮肉り、インテリな自分を皮肉り、世界を皮肉り、恋愛そのものだけは肯定する愚直さは惹かれるべき部分だ。
でも、映画として、もっと素直に感動に直結できる何かを感じなかったみたいです。僕はね。
あと、あんまり言いたくないんだけど、この主人公のような人間は面倒くさいから友達にはなりたくないですね。
面倒くさいですよね。
頭の良い奴に皮肉ばかり言われたら嫌な気分にもなりますよ。
本当はこういう純粋さ、愚直さを人として褒めるべきなんだろうけど。
こういう言い方は卑怯ですけれども、僕なんかは馬鹿ですからね。
太刀打ちできないんですよね。
頭の回転も遅いしボキャブラリーも少ないし。
まあ、どうでもいいけれども。
クリストファー・ウォーケンが出ています。
★★★☆☆
駿河シカヲで御座います。
ぼくは眠いのです。
しかし、プライベートタイムが惜しいのです。
今回観たのは、三枝健起監督「オリヲン座からの招待状」です。
<公式HP>
http://www.orionza-movie.jp/
<作品解説・詳細>
オリヲン座からの招待状 - goo 映画
町の映画館・オリヲン座は、毎日、たくさんの人で賑わっていた。経営しているのは映写技師の豊田松蔵と妻・トヨだ。ある日、一人の青年が映画館にやってきた。映画を観たくて仕方がないが、お金がない。トヨはその青年を「途中からだから」と言って入れてやった。上映が終ると、その青年、留吉は松蔵にここで働かせてくれと頼み込む。留吉は熱心に働き、映写技師となる。しかし、松蔵が急死してから、映画館は段々寂れるように…。
“泣ける作家”として国民的人気の浅田次郎原作の「鉄道員」に収められた短編小説を『MISTY』の三枝健起監督が映画化。昭和30年代の映画黄金時代から、映画が斜陽になり、現代に至るまで、亡き夫から受け継いだ映画館、オリヲン座を守る妻と映写技師の純愛を描く。昭和30年代を描いた映画がヒットしているが、湿り気のある映像は、まさに昭和そのものだ。劇中、上映されている映画として『無法松の一生』『二十四の瞳』『ひめゆりの塔』など、名作の映像が流れるなど、和製『ニューシネマ・パラダイス』と言ったところ。主演の宮沢りえが『たそがれ清兵衛』、『花よりもなほ』に続き、愛する男性を陰で支える献身的な女性を好演している。
<レビュー>録画して観た。
goo映画の解説にもあるが、浅田次郎という輩は「泣ける作家」として知られているようだ。
しかしこんなインチキ野郎の書いた話に泣ける訳もなかろう。
「鉄道員」ほど醜悪な映画ではないが、浅田何某の原作で本当に泣かせようと思っているのか、思っているならそれは直情的な単細胞の持ち主による極めて傲慢な暴力行為なのである。
とりあえず浅田何某のことは忘れよう。
余計な触れ込みも置いておこう。
映画として最も不満なのは、何故加瀬亮と宮沢りえに老人のメイクをさせぬのだ。
何故老人になった二人に代役を使うのだ。
加瀬亮の代役となった原田芳雄は名優である。だがそんなことはどうでもよろしい。
映画なんてしょせんインチキなんだから、若い俳優でも老けメイクをさせれば良いのだ。
そのぐらいの覚悟でやれと言いたい。
主役が老人になったからといって老人を使うのは、傲慢である。強権的である。
臭いものには蓋をしろという根性が気に入らぬ。
まじめにインチキをやれ。
そもそもインチキであること自体を分かっていないのだろうか。
制作陣は何を考えておるのだ。
言い過ぎた。
悪かった。
「ALWAYS三丁目の夕日」と同じく、昔を懐かしんで昭和ノスタルジーに癒されましょう路線の映画である。
ぼくは「ALWAYS三丁目の夕日」はどちらかと言えば擁護している。
だが、こちらはあんまりよろしくないと思う。
何故「ALWAYS三丁目の夕日」に惹かれるのかというと、あれはよく考えたらおかしな映画だからである。
あんな東京はありえない。まったくリアルじゃない。そこが良い。
VFXを過剰に取り入れて昭和を無理矢理再現させた結果、実はどこにもありそうにない異空間になってしまっているのである。
意図的ではないのかもしれないが、擬似的に、つまり嘘のノスタルジーを感じさせてしまう底意地の悪さというものが感じられて良いなあと思うのだ。
しかし、「オリヲン座からの招待状」の頭の悪さは如何ともし難い。
くだらない、意味のない、二番煎じはやめたまえ。もっと発展的に二番煎じをやりたまえ。
全て失敗しているよ。
言い過ぎた。
悪かった。
俳優は良い。
田口トモロヲは素晴らしかった。
★★★☆☆
頭痛薬があんまり効かない。
今日はまだまだ更新するよ。
観た映画の感想が溜まっているのです。
今回のエントリは溝口健二「雨月物語」。
<作品詳細・解説>
雨月物語(1953) - goo 映画
上田秋成の「雨月物語」九話のうち「蛇性の婬」「浅茅が宿」の二つを採って自由にアレンジした川口松太郎の小説(オール読物)を原型として、川口松太郎、依田義賢が共同脚色した。製作の永田雅一、企画の辻久一、共に「大仏開眼」のトップ・スタッフ。監督、撮影は「お遊さま」以来のコムビ溝口健二と宮川一夫である。早坂文雄、伊藤熹朔がそれぞれ音楽・美術面の総監督にあたり、風俗考証を甲斐荘楠音、舞及び謡曲の指導を観世流の小寺金七がする。キャストは「大仏開眼」の京マチ子、水戸光子、「煙突の見える場所」の田中絹代、「妖精は花の匂いがする」の森雅之などの他俳優座の小沢栄、青山杉作が出演する。
※ストーリーの結末が掲載されているので注意!
大正十一年春。--琵琶湖周辺に荒れくるう羽柴、柴田間の戦火をぬって、北近江の陶工源十郎はつくりためた焼物を捌きに旅に上った。従う眷族のうち妻宮木と子の源市は戦火を怖れて引返し、義弟の藤兵衛はその女房阿浜をすてて通りかかった羽柴勢にまぎれ入った。彼は侍分への出世を夢みていたのである。合戦間近の大溝城下で、源十郎はその陶器を数多注文した上臈風の美女にひかれる。彼女は朽木屋敷の若狭と名乗った。注文品を携えて屋敷を訪れた彼は、若狭と付添の老女から思いがけぬ饗応をうける。若狭のふと示す情熱。--もう彼はこの屋敷からのがれられなかった。一方、戦場のどさくさまぎれに兜首を拾った藤兵衛は、馬と家来持ちの侍に立身する。しかし街道の遊女宿で白首姿におちぶれた阿浜とめぐりあい、涙ながらに痛罵されてみれば、いい気持もしない。阿浜は自害した。日夜の悦楽から暫時足をぬいて町に出た源十郎は、一人の老僧に面ての死相を指摘される。若狭たちは織田信長に滅された朽木一族の死霊だったのである。老僧からもらった呪符をもって彼が帰りつくと、朽木屋敷には白骨だけがのこっていた。--源十郎はとぼとぼと妻子のまつ郷里へ歩をかえした。戦禍に荒れはてた北近江の村。かたぶいた草屋根の下に、彼は久方ぶりでやせおとろえた宮木と向いあう。しかし一夜が明けて、彼女も幻と消えうせた。宮木は源十郎と訣別以来、苦難に耐え、そして耐えきれずにすでにこの世を去っていたのである。--源十郎は爾後の半生、この二人の女を弔いつつ陶器つくりに精進した。その傍らには、立身の夢破れて帰村した義弟、藤兵衛の姿もあった。
<レビュー>溝口健二の映画を観たのはこれで三本目。
その三本に共通して言えるのは、女優の存在感が際立っているのである。
全て時代劇で、当然それは男尊女卑の時代なのだが、とにかく女性が美しく、逆説的に優位性がしめされている。
まさに女優の独壇場なのである。
まあ、それが意図に反した結果なのか、というか意図しているかどうかがそもそも三本観ただけでは分からないので考察はしないでおく。
ただ、「山椒大夫」「近松物語」「雨月物語」の三本は、圧倒的に女尊男卑であることが映画を美しいものたらしめるのだということをぼくに半ば確信させたという意義をもっている、ということは記しておかねばなるまい。
田中絹代は素晴らしい女優だ。
特別な美人ではない。
というより、いわゆる美人ではない。
けれども田中絹代はコンスタントに妖艶の領域に飛躍する。
それでいて普段は市井の一般主婦を、普通に、まったく無理なく演じることができる。
さらに、例えば杉村春子的なクソババア的醜悪さが注意深く取り除かれていて(ただし杉村春子のそれは彼女の武器)、まったく用意周到だと思う。というか、基本、清潔感がある。
つまり田中絹代は嫌われようがない女性なのだ。
共演者の京マチ子は、美人に加えて、妖艶である。
むしろ、妖艶というカテゴリーに限定してよいほどの絶対的な妖艶さを誇っている。
これはもう世界に誇れるだろう。
雨月物語の幽霊は、京マチ子以外にはつとまらない。
限定的な強さというのも、ひとつの魅力である。
ということで、これは女優を観る映画である。
溝口映画の特徴であるワンシーンワンショットはやや控え目な気がするが、流れるようなカットつなぎ、宮川一夫撮影による美しい画はまったくいつものように堪能することができる。
どう考えても一流の映画というしかない。
★★★★★
駿河シカヲです。
数日間頭痛が続いております。
今回の映画は、アルベール・ラモリス「赤い風船」です。
<公式HP>
http://ballon.cinemacafe.net/
<作品解説・あらすじ>
赤い風船 - goo 映画
1950年代、パリ。少年パスカルは、街灯に結ばれた赤い風船を見つける。よじ登って風船を手にすると、どうやらその風船には意思があるらしい。手を放してもパスカルになついて後をついてくる。ある日、パスカルと風船の仲の良さを妬んだいたずらっこ達が追いかけてきて…。
1956年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(短編)を受賞、その後数々の映画賞に輝いた不朽の名作。アルベール・ラモリス監督の描き出す世界は、シンプルなストーリーとわずかな台詞によって構成されているのにも関わらず、映画が語りつくせる限りのものが詰まっている。(作品資料より)
<レビュー>ぼくは、どう考えても二十世紀の人間だ。
この先天寿をまっとうするまで生きたとしたら、二十一世紀のほうがよっぽど長くいたことになるのだが、
それでもやっぱり二十世紀の人間なのだと思う。
何故なら、二十一世紀が来る前までに、ぼくの人格形成が完成(終了)してしまったからだ。
今のところ、あれから何一つ自分は変わらない。
この先も変わりそうにない。
ぼくは二十世紀に作られた、二十世紀の人間だ。
少年時代にその後のあらゆる宿命が決定される。
少年と風船の寓話。
ほんの四十分足らずの映画である。
この映画が何より映画的なのは、赤い風船の動きがあまりに自然なために、それが意思をもっているものと錯覚し、ありえない話をありえない話に思わせないところである。
少年が風船とともにどこかへ飛んでゆくラストシーンには、泣く。
個人的なツボにハマったというのも確かにあるけれども、空を飛びたい人や、思春期に屋上でひとりになりたかった人、ビルから飛び降り自殺したかった人、現実から逃げたい人、いじめられっ子だった人などは、少なくともあの極めて刹那的でロマンチックなフィナーレに泣くしかないと思う。
少年が幸せかどうか、それはそれとして、少年のぼんやりとしているけれどもパチンと水を打った絵のように純粋な憧れを、象徴的かつスペクタクルに具現化し、最終的にラストシーンで集約、昇華してみせたアルベール・ラモリスの意匠に拍手を送りたい。
終わったあとに、すべてがあり得ない話であったことに気付かされ、やはり映画というものはインチキなものだと結論付ける。
その一連の流れが、何より映画的なものに触れたことを証明しているのだ。
だからこれは素晴らしい映画である。
ぼくは夢を観ていたのか。
ちなみに、ぼくが観たDVDは「白い馬」という短編と抱き合わせなのだが、「白い馬」のほうは観ていない。
何故なら、忙しかったり眠かったりで、あっという間にTSUTAYAのレンタル期間の一週間が来てしまったからである。
ぼくはTSUTAYAに延滞料金を取られたくなかった。
延滞料金が惜しくて、「白い馬」を観ずにDVDを返却してしまった。
ぼくの怠惰がそのような結果を招いてしまった。
レンタルした映画を観ずに返してしまうとは、映画ファンとして犯罪的な愚行であり、嗜好品を愛する素晴らしき貧乏人の鏡になりえないという一面をも証明してしまう行為なのである。
★★★★★
※向現・・・村上龍 「 五分後の世界」より
どうってことのない映画を観た。
梅沢利之監督の「イッツ・ア・ニューデイ」という映画だ。
ていうか「あ行」の映画、やけに多くないかい。
<公式HP>
http://www.newday-movie.jp/
<作品概要>
goo 映画
東京国際映画祭公式出品作品。突然ストレスで周囲の声が聞こえなくなってしまった冴えない商社マンと、MBAを持つスーパー派遣社員との心の交流を描くヒューマンドラマ。仕事にがんばりすぎて、ちょっと孤独に感じた時、毎日の生活に息苦しさを感じた時、きっと見守ってくれる人はいる。そんなメッセージがこめられた作品。
<レビュー>簡単に済ませたい。
これは全然大したことのない作品だ。
テレビドラマで十分だ。
よく、「世にも奇妙な物語」で、ほのぼの感動系の話がときどきあるでしょう。
あんな感じです。
だからこんなものは三十分でいい。
とか言っておきながら、ぼくは退屈することなく、楽しく観たし、
ほどよく癒されました。
映画だと思えば肩が凝るのです。
暇つぶしに二時間ドラマを観たと思えば、全然オッケーなのだよ。
主演の青山倫子さんは初めて見たけれども、
調べたら、モデルさんとして大変有名らしい。
CMにもたくさんでているらしい。
たしかに美人ではあるな。
もう一人のサラリーマンの時津真人という人も、
特にイケメンでもないが、それだけになかなか好感がもてる。
いわゆる普通の好青年ですな。
展開の都合良すぎの、ハッピーエンドの、いたって平和な、
暇つぶしに最適な、ハートウォーミングな、大したことのない、
人が虐殺されたりしない、そんな、あ、そんな、
俺みたいな腐った奴が観てはならない映画であった。
が、俺はときおりニコニコしながら観ていた。
バカだ。死んでほしいと思うよ俺みたいな奴は。
★★★☆☆
荒んでいます。駿河シカヲです。
わたくしの大好きな名匠・小津安二郎の『浮草』を観ました。
小津作品の中でも、いろんな意味で異色といえます。
<作品概要>
浮草(1959) - goo 映画
「お早よう」のコンビ野田高梧と小津安二郎の共同脚本を小津安二郎が監督したもので、ドサ廻り一座の浮草稼業ぶりを描いたもの。撮影は「鍵(1959)」の宮川一夫が担当した。
<あらすじ>※ストーリーの結末が記載されているのでご注意ください。
志摩半島の西南端にある小さな港町。そこの相生座に何年ぶりかで嵐駒十郎一座がかかった。座長の駒十郎を筆頭に、すみ子、加代、吉之助など総勢十五人、知多半島一帯を廻って来た一座だ。駒十郎とすみ子の仲は一座の誰もが知っていた。だがこの土地には、駒十郎が三十代の頃に子供まで生ませたお芳が移り住んで、駒十郎を待っていた。その子・清は郵便局に勤めていた。お芳は清に、駒十郎は伯父だと言い聞かせていた。駒十郎は、清を相手に釣に出たり、将棋をさしたりした。すみ子が感づいた。妹分の加代をそそのかして清を誘惑させ、せめてもの腹いせにしようとした。清はまんまとその手にのった。やがて、加代と清の仲は、加代としても抜きさしならぬものになっていた。客の不入りや、吉之助が一座の有金をさらってドロンしたりして、駒十郎は一座を解散する以外には手がなくなった。衣裳を売り小道具を手放して僅かな金を手に入れると、駒十郎はそれを皆の足代に渡して一座と別れ、お芳の店へ足を運んだ。永年の役者稼業に見切りをつけ、この土地でお芳や清と地道に暮そうという気持があった。事情は変った。清が加代に誘われて家を出たまま、夜になりても帰って来ないというのだ。駅前の安宿で、加代と清は一夜を明かし、仲を認めてもらおうとお芳の店へ帰って来た。駒十郎は加代を殴った。清は加代をかばって駒十郎を突きとばした。お芳はたまりかねて駒十郎との関係を清に告げた。清は二階へ駆け上った。駒十郎はこれを見、もう一度旅へ出る決心がついた。夜もふけた駅の待合室、そこにはあてもなく取残されたすみ子がいた。すみ子は黙って駒十郎の傍に立って来た。所詮は離れられない二人だったようだ。
<レビュー>
傑作であることには間違いないが、
小津らしからぬ点がいくつもある。
これから、それについて語る前に、
ひとつだけ言っておきたいことがある。
最初に「傑作であることには間違いない」と言ったけれど、
小津の映画を「傑作」と言ってしまうのはどうも違和感がある。
傑作かどうかを論じる以前に、とにかく小津映画というのは変わっているのだ。
小津映画を観たことのない映画好きの人は、とにかくどれでも良いからみてみるとよい。
ゴダールが意図的に変態を着飾っているとしたら、
小津はナチュラルボーンな変態野郎だ。
小津に比べたら、ゴダールなんぞはただの中二病だと思うのだよ(ただしゴダールは偉大だ)。
言いたいことがわかるかい。
だから、傑作という以前に、小津映画は小津映画でしかないような気がする。
前置きは以上。
で、この作品の小津らしからぬ点について。
まず、色彩がやけに艶やかである。
小津が好きな人にはこれをうけつけない人もいるだろう。
色彩豊かであるが、悪く言えばギトギトしている。
これは撮影が宮川一夫であることが関係しているのかもしれない。
また、ストーリーが起伏にとんでいる。
小津といえば、話自体はいつも平凡なホームドラマなのだが、
今回は、ちょっとドラマチックだ。
キャラクターもいつも以上に人間的だ。
つまり腹黒いってことだ。
それから、キャストがいつもと違う。
これは松竹ではなく、大映で撮っているせいだ。
あの絶対的なレギュラーである笠智衆がカメオ出演にとどまっている。
突貫小僧はでていたかなあ。覚えていない。
杉村春子はちゃんとでていた。
あの人、妙に気に入らないのだ。
性格が悪そうで、なんだか腹が立つ。
でもそこがいいんだろう。
それから、小津の戦後のカラー作品といえば原節子だが、彼女は出演していない。
そのかわり、二人の大女優・若尾文子と京マチ子が出ている。
演技のことはよく分からないが、
京マチ子は目で演技できる女優だと思う。
素晴らしい。
それから、若尾文子は美しい。
非常に美しく、かわいらしい。
年をとってからの、黒川紀章との2ショットの印象が強いけれども、
若いころは大変な美人であったのだ。
実のところ、原節子はそんなに好みではない。
若尾文子のほうがずっと好きだ。
まあ、香川京子には敵わないのだが。
女優の話はさておき、
なんといっても違和感があるのは、
小津映画なのに登場人物が関西弁をしゃべるのだ。
だが面白いのは、登場人物がどんなアクセントでしゃべろうが、
結局は例の棒読みセリフ回しになるのだ。
恐るべし小津安二郎。
そのほか、特にいうことはない。
いくら異色だと言っても、三十分もすれば違和感はなくなり、
いつもの小津ワールドに浸れるのだ。
そもそも小津安二郎ほど異色の映画は無いと思っているので、
どっちにしろこれは「変な映画」なのだ。
だから結局、松竹で撮ろうが、
大映で撮ろうが、
宮川一夫が撮ろうが、小津映画はどこをどう切っても小津映画なのだ。
なんと素晴らしいことだろう。
偉大なるマンネリと言うべきか。
ある種、小津は映画界のラモーンズだね。
★★★★★
駿河シカヲ
滝田洋二郎「陰陽師」を観た。
<作品詳細・解説>
陰陽師(2001) - goo 映画
平安京を舞台に、陰陽師・安倍晴明の活躍を描く時代活劇。監督は「秘密」の滝田洋二郎。夢枕獏の原作を下敷きに、「催眠」の福田靖、夢枕獏、「難波金融伝ミナミの帝王 劇場版PARTⅣ 借金極道」の江良至が共同で脚本を執筆。撮影を「ekiden」の栢野直樹が担当している。主演は、映画初出演の野村萬斎と「LOVE SONG」の伊藤英明。第56回毎日映画コンクール録音賞、第44回ブルーリボン賞主演男優賞(野村萬斎)、ゴールデングロス賞銀賞、第25回日本アカデミー賞最優秀録音賞&新人俳優賞(野村萬斎)ほか(優秀主演男優賞(野村萬斎)、優秀助演女優賞(小泉今日子)、優秀監督賞、優秀撮影賞、優秀照明賞、優秀編集賞、優秀美術賞、優秀音楽賞)受賞作品。
※結末が書かれているので注意!
謀反の罪をかけられて憤死した弟・早良親王の怨霊によって封じられた長岡京を捨てた桓武天皇が平安京に遷都してから150年、だが未だ都には鬼たちが跋扈していた。そんな鬼や妖怪を秘術を使って鎮めるのが、陰陽師と呼ばれる者たちの役目。ある日、帝と左大臣・藤原師輔の娘・女御任子との間に産まれた親王・敦平が原因不明の病に侵された。右近衛府中将・藤原博雅に助けを求められた陰陽師・安倍晴明は、早良親王の塚を守る為、人魚の肉を喰らい永遠の命を授かった青音という不思議な女を連れ内裏に上がると、敦平の体内の邪気を青音に移して命を救った。実は、敦平に呪いをかけたのは陰陽頭の道尊。彼は、都転覆を企んでいたのだ。敦平親王暗殺に失敗した道尊が次に狙いをつけたのは、帝の寵愛を受ける任子に嫉妬する右大臣・藤原元方の娘・更衣祐姫。彼女の生成を操って帝と敦平親王の命を奪おうと言うのだ。だがそれもまた、星のお告げで都の守り人となり、不思議な友情で結ばれた晴明と博雅によって阻止されてしまう。そこで、道尊は遂に早良親王の塚を破壊するという強行手段に打って出ると、早良親王の怨霊を体内に吸収し宮廷を襲った。そんな彼の強大な力の前に、博雅が倒れてしまう。博雅の命を救うべく、青音の命を博雅に移す泰山府君の祭を行う晴明。果たして博雅は蘇り、早良親王の怨霊をも鎮めることに成功した晴明は、更に道尊を結界に封じ込め倒すのであった。
<レビュー>
大した映画ではない。
滝田洋二郎の作品で当たりがでたためしが無いので(「おくりびと」はまだみていない)、もともと期待はしていなかったが。
ただし、この映画で一点だけ語られるべき点がある。
それは、主役の阿部清明を演じた野村萬斎が、なかなかちょっとしたものだったということだ。
今回の野村萬斎は、かなりの当たり役であった。
顔つきや所作はいかにも平安貴族らしく、さすが伝統芸能のプロフェッショナルである。
特にすぐれていたのは、彼の陰陽術をとなえる際のささやきである。
これが非常に妖艶ですばらしかった。
また、陰陽術を使うときの指の仕草もきれいで、女性はうっとりするのだろうなあと思った。
対して酷いのは源博雅なる人物を演じた伊藤英明である。
野村萬斎と比べると、どうしようもなく大根なのである。
こういった役は妻夫木君あたりが適役であろう。
今回はフリッツ・ラングのハリウッドでの二作目「暗黒街の弾痕」を紹介。
<作品詳細・解説>
暗黒街の弾痕(1937) - goo 映画
ウォルター・ウェンジャー・プロのユナイテッド・アーチスツ傘下に於ける第一回作品で、「激怒(1936)」「丘の一本松」のシルヴィア・シドニーと「月は我が家」「丘の一本松」のヘンリー・フォンダとが主演する。脚本は「Gウーマン」「モダン騎士道」のジーン・タウンとグレアム・ベイカーが書き下ろし、「激怒(1936)」に次いでフリッツ・ラングが監督に当たった。助演の顔ぶれは「ギャングの家」のバートン・マクレーン、「鉄人対巨人」のジーン・ディクソン、「ロイドの牛乳屋」のウィリアム・ガーガン、「宝島(1934)」のチャールズ・チック・セールで、撮影は「結婚の贈物」「浪費者」のレオン・シャムロイが担当。
※結末まで書かれているので、ネタバレ注意!
恋人ジョーン(シルヴィア・シドニー)が涙を流して、官選弁護士スティーヴン・ウィットニー(バートン・マクレーン)が運動したお蔭で、前科三犯のエディは保釈出獄を許される。ドーラン神父(ウィリアム・ガーガン)に送られ自由の身となった彼は、ウィットニーの世話である運送会社のトラック運転手となる。ジョーンの姉ボニー(ジーン・ディクソン)は妹がエディと結婚することに反対し、彼女に恋をしているウィットニーと結婚するように勧めたが、ジョーンは即日エディと式を挙げる。前科者と蔑む世間の冷たい眼に苦しめられながらも、二人に幸せな日が続いていた。郊外に庭園つきの小住宅を月賦払いで買うことになり、そこへ引移った日、エディの雇主は遅刻を理由に、非情にも彼をクビにする。なんとか職を見つけようと狂人のように町をさまようエディだが、前科者の烙印がどこまでも前途を妨げた。その頃、毒ガスを用いて銀行を襲撃し、現金を積んだトラックを奪取した怪盗がいた。乗り捨てた自動車には、エディの頭文字の入った帽子が残されていた。直ちにエディ逮捕の網が張られる。エディはジョーンに帽子は盗まれたので身に覚えがないことを告白し、逃走しようとしたが、彼女は無実を証明するため自首を勧める。そこへ警官が現れて彼は捕縛され、裁判の結果死刑が宣告された。執行の当日、エディは囚人マグシイの助けを得て自ら負傷して病室に移された時、医師を人質に脱獄を計った。その時、銀行破りの真犯人がトラックもろとも河中に転落水死しているのが発見され、エディの釈放状が着いた。ドーラン神父は拳銃を構えたエディのもとへその知らせを持って近づくが、彼は官憲のトリックと思い、神父を射殺して逃走する。ウィットニーは、ジョーンに自分の車を提供して二人を逃がす。神父を殺した悔恨に悩みながら、二人の長い逃避行が続く。野に伏し山に寝て、その中にジョーンには赤ん坊が生まれた。秘かに子供をウィットニーとボニーに托した二人は、ようやく国境近くまでたどりつく。その時、警官隊に発見され、抱き合ったまま銃弾を浴びて崩れるように倒れるのだった。
<レビュー>
フリッツ・ラングのドイツ時代の作品を観たことがない。
本作はアメリカへ渡ったあとの作品であり、フィルムノワールの傑作と言われている。
主演はヘンリー・フォンダ。
前半はあまりアップで顔が映らず、どことなく地味で、むしろ彼のファムファタールであるシルヴィア・シドニーの快活な存在感にもっていかれている。
ところが、ヘンリー・フォンダが刑務所に入ったあたりの後半から、彼の表情が明らかに存在を主張し始め、顔のアップがバンバン決まってゆく。
面会のシーンで、ヘンリー・フォンダがシルヴィア・シドニーに「銃を持ってこい!」と言うメッセージを誰にも聞かれないように伝えるシーンの彼の表情は凄い。
このときに我々は男の狂気めいた何かを感じ取り、その後のデッドエンドをはやくも確信してしまうのである。
:
白黒映画における雨のシーンは、何故あんなにもビシビシと胸にくるのだろうか。
痛そうで、冷たそうで、やるせなく、時に美しい。
雨が感情を持っている。
カラー映画の雨のシーンにそれは無い。
いくらカラーで豪雨を降らせようが、それは白黒映画の小雨にも勝てないのである。
:
この作品は、あるべき姿のメロドラマであって、あるべきメロドラマの原型である。
男と女が愛し合い、運命に翻弄され、逃避行ののちに悲しい結末を迎える。
2000年代に生きる我々が、こうして70年前のメロドラマを観ている。
映画の歴史を横断しながら、思った。
映画というものは進化しえないもので、そのわりに普遍性を欠いている、だから死にそうでなかなか死なない文化なのだ、と。
★★★★★
駿河シカヲ
内田けんじ「アフタースクール」を観たよ。
面白い!
<公式HP>
http://www.after-school.jp/index.html
<作品解説・詳細>
アフタースクール - goo 映画
母校の中学校で教師をしている神野と、サラリーマンの木村は中学時代からの親友同士。産気づいた木村の妻を、仕事で忙しい木村の代わりに神野が病院まで送りとどけた。その日、夏休み中だが部活のため出勤した神野のもとに、同級生だという探偵が訪ねてくる。島崎と名乗る探偵は木村を捜していた。若い女性と親しげにしている木村の写真を探偵に見せられた神野はショックを受け、なかば強引に木村捜しを手伝うことになってしまう。
カンヌ国際映画祭等で数々の映画賞に輝いた『運命じゃない人』から3年。内田けんじ監督作品に、大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人ら人気・実力を兼ね揃えたキャストが集結した。探偵(もしくは何かを調査、模索する人物)を狂言回し的に配置することを踏襲しながらも、時間軸を少しずつずらしながら、別の視点で同じシーンを見せることによってパズルを解いていくような痛快なストーリーテリングで見せた前作(デビュー作『WEEKEND BLUES』も同じテイスト)と違い、本作では“信じていたものが一気にひっくり返るような”想像を超えた展開が待ち受けている。内田けんじの作劇術にまんまと騙されてこそ楽しめる痛快作。
<レビュー>
ドンデン返しのカタルシスを求めたい人には、何よりおすすめの映画である。
また、推理小説が好きな人にもおすすめである。
だが、目の肥えた映画ファンにおすすめかといえば、そうでもない気がする。
たしかにストーリー展開は見事である。
現在の日本人映画監督でここまで緻密に計算されたトリックを、一流の娯楽映画として楽しませてしまう人はいないと思う。
あの三谷幸喜だって、内田けんじの才能には遥かに及ばない。
そのぐらいのストーリーテラーだとぼくは思う。
けれどもそれは物語作家として優れている、ということであって、
映画作家として特別に優れているというわけでは無い、ということなのである。
演出面で、というか、画面として特にアッと驚く何かは無かった。
といいつつも、どちらかといえばゆったりめのテンポは、ショットひとつひとつに余韻があって好みである。
だからDVDで観ていたぼくは「ん?今の何だったんだ?」と巻き戻しすることが無く、この平和なサスペンスをゆっくり考え、楽しむことができた。
だが、この映画は少なくとも二回は観なければ完全に理解できないだろう。
大まかなストーリーは一度観てわかるけれども、二度目、三度目で細かい伏線に、意図に、だんだん気付いてゆくのである。
この作品でもって内田けんじはいよいよ日本でメジャーな存在になり、当然のごとく人気映画監督の階段をかけあがってゆくに違いない、といいたいところだが、オリジナルストーリーが興行的な大成功につながらない現在の日本においては、ブレイクまでまだ待たなければならないだろう。
というか現在のマンガ、ドラマ、本の映画化が横行する(しかもそれはたいがい原作に勝てない)腐った状況を打破しうる存在でもあるので、今後にも期待したい。
内田けんじが松本人志みたいなネームバリューをもっていれば簡単なことなのだが。
しばらくTVを経験したらどうだろう。
商業映画監督としての素質は抜群に優れていると思うのだが。
★★★★★
by 駿河シカヲ
シカヲ駿河です。
今回はイーストウッドの「硫黄島からの手紙」です。
<公式HP>
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/
<作品解説・詳細>
硫黄島からの手紙 - goo 映画
戦況が悪化の一途をたどる1944年6月。アメリカ留学の経験を持ち、米軍との戦いの厳しさを誰よりも覚悟していた陸軍中将・栗林が硫黄島に降り立った。着任早々、栗林は本土防衛の最期の砦である硫黄島を死守すべく、島中にトンネルを張り巡らせ、地下要塞を築き上げる。そんな栗林の登場に、硫黄島での日々に絶望していた西郷ら兵士たちは希望を見出す。だが、一方で古参の将校たちの間で反発が高まり…。
イーストウッド監督、スピルバーグ製作の『父親たちの星条旗』に続く、硫黄島2部作の第2弾。日本の最南端にほど近い太平洋に浮かぶ、東京都小笠原村硫黄島。山手線一周ほどもないこの小さな島は、米軍の本土攻撃を食い止める最期の砦として重要な拠点だった。米軍は当初、圧倒的な戦力の違いから5日で陥落できると踏んでいたが、予想以上の日本軍の抵抗によって激戦は36日間に及んだ。この硫黄島の戦いを率いた日本軍の栗林中将、若き兵士・西郷ら何人かの人物に焦点を当て、硫黄島での戦いを明らかにしていく。戦後61年が経ち、地中から発見された数百通の手紙。届かぬとわかっていてしたためられた家族への思いが、余りにも悲痛で胸を打つ。
<レビュー>
映画はマジックだ。または幻想に過ぎない。
以下、その理由を挙げてゆきたい。
・どうみても十代にしか見えない二宮くんを主役に据えて最後まで押し切っている。
・休憩中の日本兵の会話はまるでアメリカンジョークだ。
アメリカ人のセリフを日本語に翻訳して喋っているかのよう。
しかし演じているのは日本人で、演じられているのは日本語劇である。
・地下塹壕の映像から空間性をまったく把握できない。
にもかかわらずドラマに魅了されている。
・爽快さの欠片もない戦闘描写。
しかし、「突発的な襲撃」のような緊張と緩和が組み込まれているせいで、
アクション映画足り得ている。
・渡辺謙の「天皇陛下万歳」のシーン。
右も左もストーリーもメッセージもまったく抜きにして、単純にそのアクション(肉体運動)に戦慄。
あれこそが映画的な感動の瞬間。
・硫黄、曇天、暗闇、地下、赤痢、水不足、日本兵、集団自決、イーストウッド特有の暗く冷たい演出、
加瀬亮特有の負のオーラ、負けを前提にした戦い、死、、、等々の救いようのなさ。
そこから奇跡的にマイナスイオンが発生している。
マイナス要素がマイナス要素にならない魔術。
・流れるようなカット割りは見事だが、俯瞰ショットが少ない。
接写は画面情報が少ないから観る側に選択を与えない。
これを見ろ、と言われたものを観るしかない。
余白の無い映像から、知らず知らずのうちに地下塹壕の窮屈感を与えられている。
かと言って外へ出れば撃たれる。投降すれば殺される。
最後の最後、シャベルで抵抗する二宮くんが気絶し、担架で運ばれて目をあけたときの彼の表情に、
妙な開放感を感じた。やっと負けてくれてありがとう、生き残ってくれてありがとう、と思った。
その時点では戦争はまだ終わっていないのだが。
★★★★★
by 駿河シカヲ
駿河シカヲです。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を観た。
奇妙な異空間。
<公式HP>
http://www.always3.jp/
<作品解説・詳細>
ALWAYS 続・三丁目の夕日 - goo 映画
昭和34年春。東京オリンピックの開催が決定し、日本は高度経済成長時代に足を踏み入れようとしていた。取引先も増え、軌道に乗ってきた鈴木オートに家族が増えた。事業に失敗した親戚の娘、美加を預かることにしたのだ。しかし、お嬢様育ちの美加と一平は喧嘩ばかり。一方、一度淳之介を諦めた川渕だが、再び茶川の所にやってくるようになっていた。淳之介を渡したくない茶川は、再び芥川賞に挑戦しようと決意する…。
多くのファンからの要望に応え、『ALWAYS 三丁目の夕日』が再びスクリーンに。前作で淳之介を取り戻した茶川が芥川賞に挑戦していく。今回もまた当時の東京の風景をVFXを用いて、目を疑うようなリアルさで再現している。完成したばかりの東京タワー、日本橋などの街並みに加え、東京駅、羽田空港、開通直後の新幹線こだま号など、その時代を知る人にとっては懐かしい映像が続く。また、この映画の魂でもある三丁目の人々の温かさも健在。古きよき“昭和”の世界を再び味わって欲しい。出演は、堤真一、薬師丸ひろ子、吉岡秀隆、須賀健太ら、お馴染みの顔ぶれに加え、上川隆也、マギー、渡辺いっけい他。監督は前作と同様の山崎貴。
<レビュー>
山崎貴監督(というか制作側)を評価する気にはなれないのに、作品自体は嫌いになれないという不思議なシリーズである。
山田洋次なんて大したことないけど寅さんシリーズを観ていると心が和む、というのと同じ現象が、世紀末以上に終末感漂うこの2000年代に再現されている。
本作を観た約一週間前(だったと思う。三日以上前の記憶はいつだってあやふやなのだ)、ぼくは「映画崩壊前夜」を図書館から借りて読んでいた。
「映画は常に崩壊前夜にある」という宣言が深く印象に残っていて、それでぼくは映画がいつ終焉するのか分からないものだということを念頭に映画を観てゆこうと思っていた矢先に、この作品を録画していたことを思いだし、そして2000年代にこんな代物を撮ってしまう制作陣の間抜けさを大いに、憂い、おかしみながら観ていた。
冒頭で「ゴジラ」が出てきて、途中で「君の名は」の日本橋のシーンが出てきて、あちらこちらに昭和という時代を象徴する記号がちりばめられていたのだが、何より大事なことは吉岡秀隆が出てきたことだ。
幸か不幸かカメレオン俳優ではない吉岡秀隆は、どんな作品にだって「吉岡秀隆」というイメージを観る側に与える。
だから、吉岡秀隆が出ていることで本作と寅さんシリーズが完全につながりを持ってしまったわけである。
どうせなら吉岡秀隆が呑気な人気娯楽映画シリーズモノの歴史の呪縛を背負ってゆけばよい。
2030年代にまだ映画が生きていれば、そして何らかの人気娯楽映画シリーズがあれば、そのときはきっと五十代になった吉岡秀隆の名前がその映画のエンドクレジットで流れるのだろう。
ところで、三丁目の夕日はそもそもシリーズモノとしてこれからも続いてゆくのだろうか。
本作で終わったとすれば、ここまで書いたことが全て恥ずかしい仮想未来予想図になってしまうわけで、できれば続いて欲しいのである。
踊り子役の小雪が本屋で恋人(吉岡)の投稿された雑誌を手に取ろうとする時の横顔のアップで、
光の差し込む調度のせいかも知れないのだが、一瞬フランス映画に見えた。
妙に印象的なシーンである。
★★★★
by 駿河シカヲ
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。