駿河シカヲとマダム葵による映画レビュー、書評、対談、コラム等のブログであります。
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2009.03.10,Tue
駿河シカヲである。
頭痛薬があんまり効かない。
今日はまだまだ更新するよ。
観た映画の感想が溜まっているのです。
今回のエントリは溝口健二「雨月物語」。
<作品詳細・解説>
雨月物語(1953) - goo 映画
上田秋成の「雨月物語」九話のうち「蛇性の婬」「浅茅が宿」の二つを採って自由にアレンジした川口松太郎の小説(オール読物)を原型として、川口松太郎、依田義賢が共同脚色した。製作の永田雅一、企画の辻久一、共に「大仏開眼」のトップ・スタッフ。監督、撮影は「お遊さま」以来のコムビ溝口健二と宮川一夫である。早坂文雄、伊藤熹朔がそれぞれ音楽・美術面の総監督にあたり、風俗考証を甲斐荘楠音、舞及び謡曲の指導を観世流の小寺金七がする。キャストは「大仏開眼」の京マチ子、水戸光子、「煙突の見える場所」の田中絹代、「妖精は花の匂いがする」の森雅之などの他俳優座の小沢栄、青山杉作が出演する。
※ストーリーの結末が掲載されているので注意!
溝口健二の映画を観たのはこれで三本目。
その三本に共通して言えるのは、女優の存在感が際立っているのである。
全て時代劇で、当然それは男尊女卑の時代なのだが、とにかく女性が美しく、逆説的に優位性がしめされている。
まさに女優の独壇場なのである。
まあ、それが意図に反した結果なのか、というか意図しているかどうかがそもそも三本観ただけでは分からないので考察はしないでおく。
ただ、「山椒大夫」「近松物語」「雨月物語」の三本は、圧倒的に女尊男卑であることが映画を美しいものたらしめるのだということをぼくに半ば確信させたという意義をもっている、ということは記しておかねばなるまい。
田中絹代は素晴らしい女優だ。
特別な美人ではない。
というより、いわゆる美人ではない。
けれども田中絹代はコンスタントに妖艶の領域に飛躍する。
それでいて普段は市井の一般主婦を、普通に、まったく無理なく演じることができる。
さらに、例えば杉村春子的なクソババア的醜悪さが注意深く取り除かれていて(ただし杉村春子のそれは彼女の武器)、まったく用意周到だと思う。というか、基本、清潔感がある。
つまり田中絹代は嫌われようがない女性なのだ。
共演者の京マチ子は、美人に加えて、妖艶である。
むしろ、妖艶というカテゴリーに限定してよいほどの絶対的な妖艶さを誇っている。
これはもう世界に誇れるだろう。
雨月物語の幽霊は、京マチ子以外にはつとまらない。
限定的な強さというのも、ひとつの魅力である。
ということで、これは女優を観る映画である。
溝口映画の特徴であるワンシーンワンショットはやや控え目な気がするが、流れるようなカットつなぎ、宮川一夫撮影による美しい画はまったくいつものように堪能することができる。
どう考えても一流の映画というしかない。
★★★★★
頭痛薬があんまり効かない。
今日はまだまだ更新するよ。
観た映画の感想が溜まっているのです。
今回のエントリは溝口健二「雨月物語」。
<作品詳細・解説>
雨月物語(1953) - goo 映画
上田秋成の「雨月物語」九話のうち「蛇性の婬」「浅茅が宿」の二つを採って自由にアレンジした川口松太郎の小説(オール読物)を原型として、川口松太郎、依田義賢が共同脚色した。製作の永田雅一、企画の辻久一、共に「大仏開眼」のトップ・スタッフ。監督、撮影は「お遊さま」以来のコムビ溝口健二と宮川一夫である。早坂文雄、伊藤熹朔がそれぞれ音楽・美術面の総監督にあたり、風俗考証を甲斐荘楠音、舞及び謡曲の指導を観世流の小寺金七がする。キャストは「大仏開眼」の京マチ子、水戸光子、「煙突の見える場所」の田中絹代、「妖精は花の匂いがする」の森雅之などの他俳優座の小沢栄、青山杉作が出演する。
※ストーリーの結末が掲載されているので注意!
大正十一年春。--琵琶湖周辺に荒れくるう羽柴、柴田間の戦火をぬって、北近江の陶工源十郎はつくりためた焼物を捌きに旅に上った。従う眷族のうち妻宮木と子の源市は戦火を怖れて引返し、義弟の藤兵衛はその女房阿浜をすてて通りかかった羽柴勢にまぎれ入った。彼は侍分への出世を夢みていたのである。合戦間近の大溝城下で、源十郎はその陶器を数多注文した上臈風の美女にひかれる。彼女は朽木屋敷の若狭と名乗った。注文品を携えて屋敷を訪れた彼は、若狭と付添の老女から思いがけぬ饗応をうける。若狭のふと示す情熱。--もう彼はこの屋敷からのがれられなかった。一方、戦場のどさくさまぎれに兜首を拾った藤兵衛は、馬と家来持ちの侍に立身する。しかし街道の遊女宿で白首姿におちぶれた阿浜とめぐりあい、涙ながらに痛罵されてみれば、いい気持もしない。阿浜は自害した。日夜の悦楽から暫時足をぬいて町に出た源十郎は、一人の老僧に面ての死相を指摘される。若狭たちは織田信長に滅された朽木一族の死霊だったのである。老僧からもらった呪符をもって彼が帰りつくと、朽木屋敷には白骨だけがのこっていた。--源十郎はとぼとぼと妻子のまつ郷里へ歩をかえした。戦禍に荒れはてた北近江の村。かたぶいた草屋根の下に、彼は久方ぶりでやせおとろえた宮木と向いあう。しかし一夜が明けて、彼女も幻と消えうせた。宮木は源十郎と訣別以来、苦難に耐え、そして耐えきれずにすでにこの世を去っていたのである。--源十郎は爾後の半生、この二人の女を弔いつつ陶器つくりに精進した。その傍らには、立身の夢破れて帰村した義弟、藤兵衛の姿もあった。
<レビュー>溝口健二の映画を観たのはこれで三本目。
その三本に共通して言えるのは、女優の存在感が際立っているのである。
全て時代劇で、当然それは男尊女卑の時代なのだが、とにかく女性が美しく、逆説的に優位性がしめされている。
まさに女優の独壇場なのである。
まあ、それが意図に反した結果なのか、というか意図しているかどうかがそもそも三本観ただけでは分からないので考察はしないでおく。
ただ、「山椒大夫」「近松物語」「雨月物語」の三本は、圧倒的に女尊男卑であることが映画を美しいものたらしめるのだということをぼくに半ば確信させたという意義をもっている、ということは記しておかねばなるまい。
田中絹代は素晴らしい女優だ。
特別な美人ではない。
というより、いわゆる美人ではない。
けれども田中絹代はコンスタントに妖艶の領域に飛躍する。
それでいて普段は市井の一般主婦を、普通に、まったく無理なく演じることができる。
さらに、例えば杉村春子的なクソババア的醜悪さが注意深く取り除かれていて(ただし杉村春子のそれは彼女の武器)、まったく用意周到だと思う。というか、基本、清潔感がある。
つまり田中絹代は嫌われようがない女性なのだ。
共演者の京マチ子は、美人に加えて、妖艶である。
むしろ、妖艶というカテゴリーに限定してよいほどの絶対的な妖艶さを誇っている。
これはもう世界に誇れるだろう。
雨月物語の幽霊は、京マチ子以外にはつとまらない。
限定的な強さというのも、ひとつの魅力である。
ということで、これは女優を観る映画である。
溝口映画の特徴であるワンシーンワンショットはやや控え目な気がするが、流れるようなカットつなぎ、宮川一夫撮影による美しい画はまったくいつものように堪能することができる。
どう考えても一流の映画というしかない。
★★★★★
駿河シカヲ
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駿河シカヲ & マダム葵
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自己紹介:
<駿河シカヲ>
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
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短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。
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