今回はガス・ヴァン・サント「ラスト・デイズ」で御座います。
好きな映画です。
<作品解説・詳細>
ラストデイズ - goo 映画
1人森の中をさまよっている男がいる。リハビリ施設を抜け出したロック・アーティストのブレイクだ。独り言をつぶやきながら歩く彼は、やがて1軒の屋敷にたどり着いた。そこは取り巻き連中が居候しているブレイクの家だった。家の中をうろつき、時おり倒れ込むブレイク。しかし誰も彼の姿に関心を払わない。そんな状況にはお構いなしに、セールスマンや宗教団体の勧誘者、レコード会社の重役などが屋敷を訪れてくる。ようやく誰もいなくなり、静かになった屋敷でブレイクは楽器を演奏する。翌朝、温室でブレイクの死体が発見された。
グランジ・ロックの代表的なバンド“ニルヴァーナ”のヴォーカリストで、中心人物でもあったカート・コバーン。彼はバンドの成功と引き換えに孤独やプレッシャーに悩まされ、やがてドラッグに溺れるようになり、1994年4月5日に自ら命を絶った。その前に友人のリヴァー・フェニックスを亡くし、大きなショックを受けていた監督のガス・ヴァン・サントは、その経験とコバーンの死からこの作品のイメージが浮かんだという。映画ではブレイク(=コバーン)がなぜ精神を病むようになったかは明示されていない。ただ、そこには周囲から断絶した、絶望的なまでの孤独がある。生気を失い、森や屋敷をうろつくブレイクは、まるで無害なゾンビのようだ。誰も彼の姿は見ていても、彼の心の中まで見ようとしない。大きな喪失感が画面の隅々にあふれている作品だ。
<レビュー>
ぼくの世代のロック好きは、ニルヴァーナの洗礼を受けた人が多い。
だが、ぼくはそこまで影響を受けなかったクチである。
で、この映画はガス・ヴァン・サントがニルヴァーナのカートコバーンに捧げた作品である。
ここで気になるのは、世間のこの映画に対する評価である。
おおまかにそれらをまとめると、「ニルヴァーナ信者しか感情移入できない、退屈な映画である」といった感じ。
ぼくはそれに対して大いに腹が立っているのである。
これは、話題になった前作「エレファント」に勝るとも劣らない傑作なのである。
何故君たちは、冴えわたる移動撮影の美しいロングショットに心を動かされないのか。
鈍感極まりないと思うのだ。
死のうと思ったことがない人には分からないのだろうか。
どうなんだろう。
独りになりたいと思ったことがない人にも分からないのかも知れない。
言い過ぎだろうか。
あれのどこが退屈なのだろうか。
最初から最後まで、ただならぬ緊張感がある。
人が死ぬ、というのは、ああいうことなのだ。
説明的じゃなくて、親切じゃなくて、限りなく暴力的なのだ。
理由が大事なのではない。
そこらじゅうに死の匂いが充満していることが重要なのであり、その緊張した状況にまったく気付けないとは何事なのだ。
画面をもっと見るべきだ。
文脈を読むな。
「エレファント」だってそうだ。
理由がなくても人は行動するのだ。
それでも、ああこの人死にそうだなとか、ああこの人殺しそうだなとか、なんとなくわかるのだ。
そうせざるを得ないような必然性が優れた映画には漂っている。
その後、本当にそうなるかどうかは、作る側の自由意思で良いとは思うが、そこに行きつくまでは往々にして決定論に支配されて然るべきなのである。
また言い過ぎた気がする。
とにかく、カート・コバーンを抜きにしても、この映画は素晴らしい。
ぼくはむきになって擁護したい。
例えばVUの「毛皮のヴィーナス」をレコードで聴きながら口ずさむワンシーンワンカット、あれなどは実に良いのだ。
それから、最後のほうで家を出て行った男女が、車内でギター弾いているシーンの、あの金髪女性の顔は美しい。初めてアップで出てきて、ああ、美しくそして哀しいと思った。
また、主人公ブレイクの一挙手一頭足がなんとも痛ましい。
ドラッグのやりすぎでああなっているというより、根本的に病んでいるような感じ。
ただただ一人にさせて欲しい、あの感覚。
そして、リリシズム溢れる美しい風景がまた倒錯的で、リアルじゃない。
風景としてのパラフィリアというのだろうか。
ただし、現実のクソっぷりを拒絶しようとする意思が制作側にあったならば、美しい風景で対処するしかないのかもしれない。
ある種これはだまし絵の世界である。
ただ、最期に警察が現場検証しているシーンが妙にリアリティがあって残酷で、胸にずっしりとくる。
ちなみに、キム・ゴードンがレコード会社の人の役でカメオ出演している。
まあ、それはどうでもいい話。
★★★★★
駿河シカヲ
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。