ロベルト・ロッセリーニ監督「ドイツ零年」を観ました。
<作品解説・詳細>
ドイツ零年(1948) - goo 映画
「無防備都市」のロベルト・ロッセリーニが「戦火のかなた」についでベルリン・ロケした一九四八年作品。同年ロカルノ国際映画祭に入賞した。ロッセリーニ自身のオリジナル脚本から、彼とカルロ・リッツァーニ、マックス・コルペットが脚色している。撮影はロベール・ジュイヤール、音楽は「戦火のかなた」のレンツォ・ロッセリーニ。出演者はすべて無名の素人俳優で、エドムンド・メシュケの少年を中心に、エルンスト・ピットシャウ、インゲトラウト・ヒンツ、フランツ・クリューゲル、エーリッヒ・ギュネらが共演する。なお本作品はイタリア語版で、その監修にはセルジオ・アミディが当っている。
※ストーリーの結末が記載されているので注意して下さい。
第二次大戦直後のベルリンは、全く廃虚に等しい街であった。焼けるビルの一角に追いつめられているケーレル一家では、父(エルンスト・ピットシャウ)は回復の望みのない病床で死にたい死にたいと家族を手こずらし、娘エヴァ(インゲトラウト・ヒンツ)はひそかに夜のキャバレに出かけては外人と交際して家計を助け、長男のカール・ハインツ(フランツ・クリューゲル)はナチ党員の生き残りで、警察の眼を逃れて家でごろごろしていた。そして末子のエドムンド(エドムンド・メシュケ)は、敗戦以来小学校にも通わず、街で物品の交換をしたり、元の小学校教員で今は闇屋をしている男(エーリッヒ・ギュネ)の手先となって、ヒットラーの演説レコードをアメリカ兵に売ったりしていた。父親の病状は悪化し、医者の骨折りでやっと慈善病院に入院出来たが、一家の貧乏はいよいよつのった。エドムンドは再び旧師をたずね仕事をねだったが、今度ははねつけられ、今の世に弱い者はむしろ死ぬべきだとさえ言われた。父は退院し、ぐうたらなカール・ハインツと口汚くののしり合う日がつづいた。エドムンドはついに或夜茶の中に劇薬を入れて父にのませた。戸別調査に来た巡査に兄はひかれて行き、その騒ぎにエドムンドは家を飛出した。翌朝旧師に父殺しを告げると、彼は仰天してなす所を知らず、絶望したエドムンドはひとり廃虚をさまよい歩いた末、焼けビルの上から父の柩が墓地に運ばれていくのを見下しつつ、下の街路に身を投げた。
<レビュー>21世紀の映画はスピード感がある。テンポが速くてカット割りも細かい。
そういうのに慣れているものだから、子供のころ、凄くテンポが速くてわくわくしてジェットコースターみたいで面白かったなあって記憶がある作品を今になって見直すと、意外なほど遅いことに驚いたりすることがあったりする。
第二次大戦後の荒廃したヨーロッパで撮られたこの映画のスピード感は、最近の映画のスピード感とは違う類のものである。
実際は速くないのに速く見えるのは一体何故なのか。
これはいわばロッテの成瀬やソフトバンクの杉内・和田などのストレートである。
実際は140キロぐらいなのに、バッターにしてみると150キロ以上に感じるというやつである。
出どころの見えない投げ方をする左腕の投手に多い。
まあそれはいいとして、この作品のが早急に思えるのは、メッセージを伝えようとする迫力、あの異様な迫力に圧倒されたからなのだろうか。
映画というものはつくづく恐ろしいものだ。
そう感じた。
ただし、やはり今回も、ネオレアリズモに対する、現代に生きる私の接し方が分からない。
「無防備都市」を観たとき、ネオレアリズモ云々より、ただただ質の高い映画だと感じた。
ドキュメンタリー的な部分が強いのかと思いきや、意外なほどドラマツルギーがしっかりなされていた。
それはこの作品も同じで、話がちゃんとしている。
ヌーヴェルヴァーグの映画よりもよっぽど分かりやすい。
冒頭のナレーションでまず、子供の人権がどうのこうの語られる。
はじめにテーマがなんとなく提示されてしまう映画がぼくは好きではない。
ミスチル的な何かを感じてしまう。
あの北京五輪の曲ありますね。
「一番きれいな色ってなんだろう?一番光ってるものってなんだろう?」ですか、あの問いかけを聴いた瞬間に、ああこの人達の(最近の)音楽は本当に苦手だなあと思ってしまうのです。
で、この映画は冒頭で何やかんやとオラオラと高らかにイデオロギー云々を語りだすのです。
まあ普段のぼくならばそこでじんましんがでる勢いで拒否ってしまうのだが、昔の白黒映画の、しかも第二次大戦直後のまだ復興していないドイツの危機的状況下で語られる臨場感、独特なヒリヒリする感覚があったりして、逆に気持ちが盛り上がったことは事実である。
ただああやってイデオロギー云々を語られてしまうと、ネオレアリズモにも、教条主義的な縛りがあったりするんじゃないだろうかと変に勘繰ってしまう。
それが正しいか正しくないかは別にして、そう思ってしまったことが残念。
社会性が強い映画は苦手ではあるけれども、映画は常に社会性と切り離せない関係にあるのだろう。
仕方がない。
これは時代、社会の過激さが反映されすぎた哀しい映画である。
そして大変貴重である。
社会的でない映画は、おそらくひとつも無い。時代劇であろうと、SFであろうと。
社会的でない映画がもしあったとすれば、それはきっと映画ではないんだな。
なにもオリバー・ストーンやスパイク・リーや若松孝二みたいなのが良いって言っているわけではないのだけれども。
ラスト間際、非常に美しいシーンがあります。
荒廃した町をさまよう少年。
ふいにパイプオルガンの響き。
教会から流れている音楽なのです。
曲はゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの「ラルゴ」です。
クラシックで私が最も好きな曲です。
ここでもう少し余韻が続いて欲しいところで、音楽がぶつ切りになります。
音楽があと三十秒続いていたら、私は泣いたでしょう。
でも、ぶつ切りで良かった。
あの、少年があてもなくさまよい続けるくだりの断片をひろい集めるようなカット割りが素晴らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=P-kS8tNAvJM&feature=related
ヘンデルの「ラルゴ」という名前は速度記号のひとつであって、「オンブラ・マイ・フ」というのが本当の曲名です。「懐かしい木陰よ」という意味だそうな。
Ombra mai fù |
こんな木陰は 今まで決してなかった― |
よく考えると、少年の短い生涯で、最期に聴いた音楽がラルゴだったこと、それだけは幸せだったような。
でも絶望はそんなものを超越しますからね。
自殺したわけですから。
少年は100%不幸でした。
★★★★★
夜中の12時から3時にかけて映画を観ることが多い。
近所を自転車で疾走している姿をよく目撃されている。
<マダム葵>
短期間でもの凄い本数の映画を観たりする。
夕方の花街でそそくさと歩く後姿を目撃されることがある。